瞑想とは自分の仕舞い込んだ影の部分と対面すること。
それは雑念ではなくとても有益な情報となる。無念無想になるのではなく浮かんでは消え、また浮かび上がってくる雑念を遠くから他人事のように眺めること。
そこから先はまだわからない。
プルシャの海に飛び込めるのか、サマーディの火の粉を浴びながら歩けるのか・・・・
昨日の瞑想はそういう意味では面白かった。
一回目は5分そこそこ。
居眠りしているのか瞑想なのか区別がなくなり、首は垂れ背骨は曲がった。
5分も坐れなかった。
その後、さまざまなワークで背骨を刺激したり、遠くを眺めたり、隠しておきたい事を思い浮かべたり。
そして、最後の瞑想は15分。
左股関節に思春期のような痛みを覚えたが頭も垂れず背骨も真っ直ぐなまま坐ることができた。
そして浮かんできた雑念。
もうずいぶん昔の話。
20年は経っている、会社の後輩が外注社員の奥さんといろいろオイタしてしまった。その会社の熱血社長が怒り狂って怒鳴り込んできた。
その時わしと当時のわしの上司を含めて職場近くのファミレスでのひと悶着のシーンが結構明晰に浮かんできた。
雑念なのか夢なのか、坐っているわしには判断できずそのまんま映画のスクリーンを観るように鑑賞していた。
そのシーンをメインに、当時の職場の侃々諤々の会議のシーンなどがフラッシュバックしていた。
元々、世話になった人へ、具体的にどんなときに世話になったのかをざっと書き出してから瞑想に入ったのではじめは感謝の気持ちで目を瞑った。
一行目に書き出したのは父の名前。そして、どんなことに感謝をしているか、そのワンシーンを具体的に書けという問いに、初めての海外旅行であるホノルルマラソンにひとりでかける際、家を出る直前に「無理をするなよ」と声をかけられたことを書いた。この一言が妙に印象に残っていた。
そして、父が引退した後、わしが車を買うという時にたぶん退職金から援助してくれたことを書いた。
そして「手術」とひとこと。
父は40代の前半に当時ではまだ成功例も少ないとても大きな手術をした。
冠状動脈バイパス手術。
この手術の手法をアメリカで学んできた先生が直接メスを握り一晩かかった大手術も成功し「心筋梗塞は治る」という記事まで大手の新聞に掲載された。それも母親とふたりで微笑む写真つきで。
長い入院の末、職場に復帰し、その後脳梗塞などで倒れたこともあり右半身が不自由になったが、定年まで勤め上げ、そしてこれからセカンドライフを楽しもうというとき20年前と同じような狭窄が発見され再手術となった。
当初、父は頑なに手術を拒否していた。戦争にも行った世代だが戦争ではそれほど怖い目には遭っていないらしく、右というほどではないが、戦争反対のスローガンをあげる共産党などには反対の意見をぶつけていた。
しかし、あの手術だけはかなり怖い思いをしたらしく、家族がなんと言おうが親類がなんと言おうが首を横に振り続けた。
手術当日の記憶。
数時間に及ぶ手術が終わり、わしら家族は病院近くの食堂で夕食を摂り(とんかつだった)いったんうちに帰った。たしか、母は病院に残り叔母と中学生のわしと小学生の妹が帰ったんだと記憶している。夜中の電話に起こされた叔母は再手術を今からすると伝えられ3人でタクシーで病院まで行ったんだろうと思う。記憶ははっきりしていない。
次に覚えているシーンは病院のICUで酸素テントに入り静かに眠っている父の姿だった。
後に、あの二回目の手術はどうだったのか聞いたことがある。
もう、麻酔を使えないので麻酔なしで開いたそうだ。父はそのときの感想を痛いというより熱いという感覚だったと言っていた。記憶に残っているのはそのことだけ。
たぶん、言葉には言い表せない感覚がほかにたくさんあったのだろう。
だから、あの手術だけはもうしたくないと首を振り続けた。
比喩でも修辞でもなく、父は本当にうなだれた首を横に振っていた。
しかしそれでも最終的に、父は家族会議の末に手術の決心をした。
当時の執刀医であるその世界では第一人者の先生自ら執刀するということだった。
先生にもそれだけ思い入れのある患者だったんだろう。
当日、わしは自分自身で考えたプロジェクト内の企画を会議に諮っていた。当時のプロジェクトは数十名の大所帯。リーダクラスだけでも20人ほどいて彼らに対してああでもないこうでもない、いいやああ、こうだと侃々諤々やっていた。
会議中に庶務の女の子から何度も電話が入っていると連絡があったが取り合わないでいた。
何回目かの連絡で母親の剣幕に押されたのかどうしても取ってくれというので電話に出ると手術の進行が芳しくないので来てくれと言う。わしは自分の企画なのでどうしても通したかったが会議を中座して病院に向かった。
病院に着くともう夜だった。
手術室の前のベンチで座っていると別の手術の家族の人にご家族呼んでましたよということで手術室入った。
父は呼吸していなかった。
水分の排出機能がうまくいかなくなったとかでかえるのように膨れていた。
その膨れたほっぺたにはまだ温もりが残っていた。いつもの父とはぜんぜん違う顔をしていたが死んでいるとは思えなかった。医師が後ろでなにやらごちゃごちゃ言っていたがぜんぜん聞こえなかった。
バイパス用に摘出する血管がぼろぼろでだめだったと執刀医は言っていたという。
早速、葬儀社の人間が来てうちまで運ぶ段取りを整えてくれた。
ずいぶん段取りいいなあと思った。
うちに帰ると別の葬儀社の人間が来て葬儀はどこでやるかとか棺桶はどうするかとか花はどうするかとか細かいことを相談したような気がする。
葬儀場に行くまで団地の集会所で一晩冷たくなった父と過ごした。
報せを聞いた親戚がちらほらと訪ねてくる。
入院中に見舞った伯母が決心したんだねと言ったら、父は涙をポロポロ流して大きくうなずいたという。
その話を聞いて涙を流す、母と妹。
うだなだれ首を大きく横に振る父を思い出した。
父は家族の前では決して涙を見せたことはなかった。
傍らにドライアイスを抱いて寝ている父はもちろん首をたてにも横にも振らなかった。
そんな記憶を引き出しに仕舞い込んだまま、3年前父と同じ病気になり手術をした。
当時の父より10歳くらい年を取っていた。
医学は進み、胸を開き体の別の部分の血管を取り出してきてバイパスを作るわけではなく、鼠径部から大動脈へカテーテルを挿し、心臓の血管まで通し狭窄部分にステントを置き血管を広げるという手術。
30分ほどで終わってしまった。
簡単なものだ。
「なんだ時代は違うじゃん。軽いもんだよ。」と思っていたわしにもいろんな思いが積み重なり、自分自身にとって人生を転換すべき大きなイベントであったんではないかとじんわりと感じられるようになって来た。
一回目の手術から20年、当然、父もいろんなことを思い感じて生きてきたのだろう。
父親と息子。
圧倒的世代ギャップのあるもっとも身近な存在。当然反発しあうことも多かった。
仕事をしてそれなりに充実感を覚え他愛もない企画に向きになり、手術をすれば健康で明るい人生が過ごせるなどという幻想を信じていたあの頃。
父は父で自分のことも我々家族のことも考えていただろう、もちろん。
後になって思うが、父は死を覚悟して手術に臨んだのだろう。いや、もっと死の方向に向かっていたのかもしれない。
死を覚悟ではなく、死ぬ気で、もしくは死ぬつもりで、自殺同様に・・・。
あの手術から20年後にその息子であるわしは死のかけらも感じることなく手術に望み一週間ほどで退院し、何ヶ月もかけて命の重さのようなものを感じ始めている。
山伏でもある長谷川先生は自分の影の部分を傍観者のように見なさいと言った。
もうこの年になって隠さなければいけないようなことなんてないよ、すべてお天道様の下に並べてくれて結構ですよ。と思っている今のわし自身。
そんな薄っぺらな気持ちをわずか15分の瞑想がいろんなシーンを観させてくれた。
もしこの駄文を読む人がいたら・・・。
長くて脈絡のない意味不明の文章になっていると思うが、これが今のわしからみた遠くに見える隠していた影の部分なのかもしれないと思い、ここに書き晒すことにします。
http://www.youtube.com/watch?v=bcrEqIpi6sg