私は承認欲求が強いかどうかについて
「欲求」というとこのマズローの欲求の段階の図が有名ですね。
この図はこちらの論文から借用しています。
物質的な欲求として「食べ物がほしい」「安全なところに住みたい」というようなものがありますが、その基本的な欲求が満たされるともっと高次の欲求が生まれてくるそうです。この図を見ると所属や愛の欲求の上に「承認されたい」「認められたい」という欲求があるということになります。
では承認欲求が強い人はその下の部分は満たされているのでしょうか。そういうことではなくそれぞれの欲求は別のものであり、どの部分でも満たされないと欲求が強くなるのだと言われています。けれど同じ量の食事やお金や愛情が得られてもそれで満たされたと思うかどうかは個人差があると思います。
例えば家族の愛に満たされていても恋人に愛されていなければ愛の欲求は満たされないとか、ある一部の人には承認されていても別のところで承認欲求が生まれることもあるでしょう。
「他人に認めてもらいたい」という気持ちがどの人にもあるとすれば、「認めてもらっている」と感じられる場が多ければ、その欲求は満たされているので、さらに強い欲求はなくなるかもしれません。私は知らない人と話をする時に、自分の職業や今までの実績などを話したいとも思わないし、そういう意味では私には『承認欲求』は強くないのかなと思ったこともありました。
でもそれは、私は自分の職業柄、人に認めてもらえるというか自分がしていることを感謝される立場にあるため、わざわざ他人に自分がしていることを認めてもらわなくても十分満たされているのかもしれません。ただ同じ職業でも表に出たがる人とそうでない人もいるので、出たがりの私はやはり平均的な人より承認欲求が強いのかなと思うようになりました。
海外(アメリカなど)に住んでいるだけで優越感を持てる?
私たち家族が初めて海外に住んだ時には、その地域に住んでいる日本人はみんなすぐに知り合いになり、身分というか職業とか出身地なども全部書き込んだ名簿のようなものを作って助け合っていたそうです。私は小さすぎてほとんど記憶がないのですが、その後日本に帰ってから、母が「あの時だけは『先生』って呼ばれず、『〜さんの奥さん』って呼ばれていてなんか嫌だったわ」と言っていました。
私たち家族はことあるごとに、海外在住のことを話すと「あら、すごいわね〜。」と言われて、私はそれだけで変な優越感を持ってしまった時期もありました。
その後、一人でアメリカ(ハワイ)に語学留学した時、ハワイという場所柄もあって本当に様々な日本人が住んでいて、居住年数や英語の出来でマウンティングしあっているのに驚きました。
「海外に住んでいる(住んでいた)」というと何年住んでいたのかとか、どこに住んでいたとか、どれくらいその国に馴染んでいたかが、その人の価値になるような風潮にいつも違和感を感じていたのですが、今でも日本に帰ると、海外で何をしているとかより何年住んでいるのかや(アメリカに住んでいるというと)夫がアメリカ人か否か、英語はできるのかどうかなどを聞かれることが多く、夫の職業を聞かれることはあっても私の職業を聞かれることはあまりありません。ま、それはそれでいいんですけどね。
でもこういうやりとりで、もやっとするのは、やっぱり私の中に「私を認めて」という欲求があるのかもしれません。