去年、多くの学校説明会に行った中で、よく聞く言葉がありました。
「探究」
「考える力」
そして「問いを立てること」。
最近はやりの教育、という感じなのでしょう。
もちろん、自分で考えることは、大事だと思います。
大学や社会では、与えられた問題を解くだけでは、うまくいかないケースがあるのはよくある話です。
ただ説明会で話を聞いていて、少しだけ不思議な気持ちにもなりました。
「問いを立てるのに時間がかかりました」
「問いを深めていきました」
そんな言葉が何度も出てきたからです。
意味は分かります。
でもふと、こう思いました。
疑問というのは、
「問いを立てよう」と思って立てるものなのだろうか、と。
もちろん、今、我が子の小学校でも調べ学習はあり、気になることを調べてスライドにすることはあります。
そういう機会があることで、新しい発見がありますよね。
ただ、日常の中で疑問を覚える場合、私の理解では
「あれ?」と思ったり
「なんでだろう」と気になったり
「ちょっと変だな」と感じたり
そんな時、
「知りたいな」
「調べたいな」
と思ったときに、初めて人は動いていくのではないかな? と。
これらを後からまとめる段階で、「問い」という形にするとは思います。
でも、最初から「問いを立てよう」とするのは、無理やり疑問をひねり出すようで、違うような気がするのです。
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教育研究の世界でも、探究型の学習にはいろいろな議論があるようです。
生徒が主体的に学ぶことで理解が深まるという研究もありますし、一方で、基礎知識がない段階で問いから始めるのは難しい(ある程度深く知らないと、疑問がわかないから、問いが立たない)という指摘もあるようです。
どちらも一理あるのでしょう。
個人的には、
好きなことを調べてみたり
友達と話してみたり
本を読んでみたり
そういう中で自然に疑問が生まれて、少しずつ深めていくのが、無理がないように思えます。
問いや疑問は「作る」ものというより、
気づいたら「生まれている」ものなのかもしれません。
先日子供が、日能研のテキストで復習(思い起こし)をしながら
「ねぇねぇ。朝顔って自家受粉する(自分のおしべの花粉で、めしべに受粉して種を作る)んだけど、ほかの花の花粉でも受粉できるのかなぁ?」
と聞かれました。
いやいや、私、動物も植物も昆虫も星も、覚えるのが嫌いだったって言ったじゃん。
というか朝顔が自家受粉とか初めて知ったよ。
そんな私に聞くのは間違っている。
と思いつつ、Geminiに答えを聞きました(笑)
この答えはここでは書きませんが…、なんとなく湧き上がる疑問を、調べたり試したりするのが能動的な教育だと思います。
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また、最近の教育の話を聞いていると、少し気になることもあります。
もし「これからの教育はこうだ」と言うのであれば、
これまでの教育はどこが良くて、どこまでが良くなかったのだろうと、どちらの視点も見ることです。
もちろん、昔の教育にも課題はあったのだと思います。
ただ、多くの学校では先生方が忙しい中で工夫しながら授業を作り、生徒たちもその中で学んできました。
そして先生方の多くは教育学を学び、試行錯誤しながら日々授業をされています。
教育というのは、「よくないから変えよう」というだけで簡単に変えられるものでもないのだろうと思います。
だからこそ、新しい教育の方法が本当に良いのかどうかは、メリットだけではなく、デメリットや実際の効果も含めて、落ち着いて考える必要があるように思います。
温故知新
これまでのやり方の中にも大切なものがあり、そこから学べることもあるはずです。
新しい言葉や方法が出てくると、ついそちらに目が向きがちですが、教育の良し悪しはもう少しゆっくり考えてもいいのかもしれません。
そんなことを、志望校を再検討している中で、考えていました。
