現在においては小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトが目下上演中である。今般こそが「世界のオザワ」がどのようにオペラに向き合ってきたのかを鑑みるいい機会であると言えるのかも、それを可能にする資料の多さは知名度をしてこそ

 

「どうして世界に名を馳せる指揮者はオペラにたどり着いたのか」「どんな理由から作品を選ぶのか」という小さな疑問にはじまって「なぜ巨匠は巨匠足り得るのか」とする命題が横たわる

 

「この作品は若い才能の育成には最適だ」と語る一方で「僕が指揮者じゃなければもっとよかったのに」と遜って見せる姿に謙虚さが垣間見える。この世界にはさまざまな指揮者がいるけれど、こうした等身大の自分で勝負する気取らない性格が多くの聴衆に愛された由縁ではないだろうか?

 

このインタビュー中で印象に残った部分は以下;

 

ミレッラ・フレーニについて

 

フレーニの場合はね、もうベルカントの最高を行ってるんですよ。だからね、歌う時にやさしく聞こえちゃうんですよ。むずかしい歌でも。なんか、こう…そんなにむずかしいようには聞こえないの

僕が彼女と演った最初は『エフゲニー・オネーギン』っていうチャイコフスキー作品で、タチアナが手紙を書く「レター・シーン」っていう20分くらいの長いシーンがあるんです。すごいむずかしいんですよ、ソプラノにとっては。そう思ってたの、僕は。彼女とやったら全然むずかしいと思わない

うまい歌い手が歌うっていうのは、楽器の人たちがやるよりももっと具体的にいいフレーズが出る時がある、それは肉声だから。結局、器楽っていうのは──これもカタい話になりますけど──歴史を遡れば、音楽は最初は肉声だったと思うんです。それの代理としてヴィオラを作ったりヴァイオリンを作ったりした。最もそこから離れているのがピアノで、(鍵盤を叩きながら)ピアノを叩くと音が聴こえたそばから消えちゃいます。ピアノだと「ポン・ポン・ポン」、声だと「ア〜ア〜ア〜」とこうなるんですね。この歌い手がうまく歌うのをオペラで聴き慣れると「なるほど。メロディっていうのは、あるいはフレーズっていうのはこうやるのか!」っていうのがヴァイオリンとか他の人たちにも分かるんです

ほかの楽器に比べてピアノの音に連続性がないことは、たびたび指摘されていますね。そうした点こそが声楽と好相性であるという指摘についても。この後で盟友として知られる演出家のデイヴィッド・ニースも登場し、非常に息の合った様子を覗くことが出来ます

 

----- 以下、本編中の書き下しと翻訳はすべて消えましたので、

今日はこのまま投稿します。続きはまた後日 -----

 

この動画本編中でも触れられているように小澤征爾がはじめてオペラ指揮を務めたのはザルツブルク音楽祭で自身33歳の頃、その演目こそが『コジ・ファン・トゥッテ』だった。その原点とも言える今年の小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXXは、残すところ明日の東京文化会館公演のみ。お迷いの方はぜひ!