巨匠・小澤征爾の訃報を知ったのは、郷里のベトナム料理店でゴイラウムオンに舌鼓を打っている時だった。大層小さな店で隣の席との距離は僅少、そこへ似つかわしくなく着飾った身なりのご婦人方が連れ立ってやって来て「今夜は青島ビールで献杯しましょう」と仰言っているのが聞こえたことを皮切りにすべての情報を耳から得たのだった

 

まるで聞くともなしに聞こえた会話から、奇しくも彼女達もまた来月に控えた小澤征爾音楽塾を楽しみに控えた同志であることも分かった。先達て流行った新型コロナによってたくさんの音楽家たちの来日がキャンセルとなったから、彼らの歌声のありがたみは身に沁みているつもりだった。「このままだと全キャスト交代になるかもね」という何気ない一言で、それが欺瞞であったことに気付いた

 

小澤征爾の前半生を再現ドラマし、併せて指揮者を志したキッカケなど「いかに音楽と向き合ったか」について語っている。ここで小澤征爾の実父である小澤開作を演じているのは開作の内孫であり征爾の長男である小澤征悦。別のドキュメンタリー作品では全世界にはじめてキャビアを食べる姿を晒されてもいる、ある種「持ってる」男

 

このインタビュー中で印象に残った部分は以下;

 

Q. ラグビーとバッハには共通点がありますか?

 

あのね、これは変な話なんですけど…僕はね、ラグビーやってなかったら肉体的には音楽家になれなかったと思う。特に指揮者にはなれなかったと思う。何をやるにしても、バッハにししてもほかの作曲家にしても、音楽にしろラグビーにしろ、最後のところで人間が力を振り絞る技術というか精神力っていうのは共通していると思う

 

一昨日、北京の中央音楽院で5人の指揮者をオーディションしたのね。皆19〜22歳くらい、大学生ですねあれ。まだそんなに分かっていない人ばかりだったけど、だけどもエネルギーがね、あるんですよ。中国人はそこの。特に指揮者に限り今

 

Q. それは何故ですか?

 

それは僕も(疑問に)思ってすごく勉強になったんだけどね。僕らが音楽なりラグビーなりやる時に、乱暴な話だけどエネルギーを出してみないと分からない部分がある。とことんまでやった時の人間の熱意というかやる気っていうのは、バッハのあるいはベートーヴェンの精神力とかそういうものにも関係があるかもしれない。それがなくなると、どんなに技術があっても、どんなに頭が良くても、どんなに環境に恵まれていても、どんなに経済的や物理的に豊かでも、人間にとっての本当の幸福というのは得られないかもしれない。あるいは、人間にとって本当に大事なことには触われないで終わるかもしれない。…と、そんな風に一昨日(の出来事をキッカケに)思ったんですけどね

 

僕にとって驚くことに、最近若い人にそういうエネルギーが見られない。(掛け値なしの)闇雲なエネルギー。今中国で音楽を志す若い世代にはそういうものがまだあるのかも

 

Q. なぜ中国の若い世代にはそれがあるのだと思いますか?

 

恐らく「得られない」からだと思う。まだ音楽をやるチャンスにも恵まれていないし、どうやって具現化したらいいか分からないから。とにかく自分が出来ることだけはやろうっていう…

 

Q. ハングリーってことですか?

 

そう、それ!今流行りの言葉ですよね。ハングリーになってるでしょ、僕は。僕たちみたいな年代は本当に冗談になるくらいハングリーだったから、その中で生き延びてきたってことは尊いことだと思うし、次の世代にも伝えていかなきゃいけない。今僕がやっている音楽塾(小澤征爾音楽塾)なんかでも、僕が指揮してる部門ではそれをなんとかしてみんなに分かってもらおうと、「俺(=人間)は(誰しもが)孤高なんだよ」ってことを分かってもらおうと思ってやってるんですけどね

 

この小澤征爾自身の前半生を描いたドラマにあるように、彼は母親を介して讃美歌と出会い、父親の尽力によってピアノと近しく育ち、長兄の導きで音楽に親しむようになった。かつて学生時代に青春を捧げたラグビーで指を痛めたこと、それをして指揮者志望へ転向したこと、さらに齋藤秀雄先生に教えを請うたこと…そうした契機の数々を本人は「たまたまラッキーだった」と語る。しかしながら、それら重なり合う偶然を「運命」に変えたのは、紛れもなく本人のがむしゃらな努力の賜物なのだ

 

それから一念発起して単身ギター1本抱えて渡仏しブザンソン国際指揮者コンクールで優勝したことから自らの音楽人生を切り拓いて行く。しかるにそれこそが彼がここで訴え掛けたかった真意であり、そこに符合するものこそが小澤征爾音楽塾を開催する意義と捉え得るのではないだろうか。我々のような組織の構成員とは異なり身ひとつですべての結果を引き受けていかなければならない。そのためにどれほどの汗を掻けるか、文字どおり泥水を啜るような不屈の精神をいかにして培うか

 

かように考えれば、その前途が有望な音楽家や製作陣たちを日本に一定の期間留め置くことは、我が国の聴衆のみならずに歌手や舞台関係者諸氏にとっての方がむしろ大きな意味を持つ。彼自身は少なくともそう信じていたように思えてならないのだ。ほぼすべての国民が同一の母語を話すばかりか読み書きまで出来ることから、ほとんど外国語は通じないこの「異国の地」で、そこにいる観客にどう芸術の在り方を示すのか

 

そうした意味合いで以て自身の主宰する今イベントを小澤征爾音楽「塾」としたのでは。もしそうであるならば、今年の塾生たちがその部分をどう咀嚼し、それをまた敷衍していくのだろう。かねて発表されたキャストから一部に変更が出たことは心疚しくはあるが、その点も含めて彼らなりの「答え」を待ちたい