「どこにでも居る女の子」である関田都は恋に恋する高校生。毎日剣道部の活動に精を出して青春を謳歌する一方で、何よりも大ファンであるトシちゃんの追っかけに心血を注いでいる

 

ある日、彼女の同級生である熊本力子が「聖子ちゃん似」の触れ込みで芸能界デビューすることに。自分の名前にコンプレックスを感じている力子に芸名として名前を拝借されたことをキッカケに、彼女を密かに慕う同じ剣道部の迫丸先輩の気持ちに気付いた都


普段はクールな印象を受ける彼の中に、自分と同じミーハーな部分を見出した都は、何となく親近感を覚えはじめる

 

 

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前述の「トシちゃん」というのは、もちろん田原俊彦のこと。そして、著作中では全2巻という短い作品として仕上がっているものの、その中に確かな青春の凝縮を感じる秀逸な一作。今から40年近く前に執筆されたとは思えないほどに現代の女子高生諸子に通じる点も多く、何と言っても「憧れ」が「恋」に変わる瞬間の少女の心の機微に巨匠・くらもちふさこの筆が冴え渡る

実は白状してしまうと、この作品を初めて手に取った小学生の時分には、この漫画を面白いと感じていながら、そこに登場する「トシちゃん」なる人物が誰だか分からなかった。流石に聖子ちゃんは分かったものの、私が知っている神田正輝の当時の奥様だとすぐには符合しなかった

常に時代はその変遷を伴うから、どんな芸能人であれファッションであれ、いわゆる流行を積極的に作品に反映させる場合というのは、どこにでもありふれているようでいながらにして意外と少ない。こういった「禁じ手」を多くの作家は普通なら嫌うのに、彼女やよしもとばなならの少しも恐れないどころか、むしろ立ち向かいさえしている姿勢は、それこそ感心に値する

最も素晴らしいと思うのは、今から数十年前に、その当時の主な読者層であった少女達の心に共感を呼んだであろう都ちゃんに、こうして時代も年齢も異なる現在三十路の私がちゃんと感情移入出来ることだ。しかも、その相手役である迫丸先輩に、きちんと恋をすることが出来るからだ

 

その媒体を問わずに、この上なく周到に描かれた作品は、どんな時代の移り変わりも流行さえもこちらに気にさせることなく、そこに込められた意図を受け取り手であるこちらに沸き立たせることが出来得る

例えば、こうした少女漫画でいえば、いつもその心境を揺らし続ける主人公の少女に対する感情移入と、その相手役である男の子への恋という諦め切れないふたつの両立を可能にするってことだ。そうした意味においても、これはとても完成された作品だと言える

今の私にとっての「異性のタイプ」とは、まったく違う。それでも、この相手役の迫丸先輩がとても素敵だってことは理解に及ぶよ。大抵のくらもち作品に登場する「可もなく不可もなくて大抵のことを器用にこなせる芸術家肌の男の子」で、常に同性からの人望も厚く、さりとて厭味のない愛嬌がある


彼は…ただ一見すると軟派(と書いて、どれくらいのお嬢様方がご了解してくださるのか)なのだけれど、いつも女の子が恋の話で盛り上がっている間にだって自分の夢を見据えて、それを追い求め続けている。ただ遠くを見ている

かつて少女達は、恐らく男の子のこう言う瞳に恋をしたんだろうな。でも、そんな瞳は、恐らくは何処にもない。今は存在していないし、もしかしたら昔からなかったのかも。その善し悪しを措いても、現代の少女漫画に登場する相手役像の主流は、ただ主人公のために生まれて来て、それがためだけに人生を生きているようなご都合主義に取って代わられつつある

個人的にはそんな作品を読みたいとは思わないな、だって彼の生きる意義が自分だけに帰納する人を魅力的だなんて思えそうにないからね。それを真に受けて、ただ素直なだけが取り柄の甘え切った惰性を女と呼べるかも甚だ疑問だ。まったく対等ではない関係をこそ、果たして恋と認め得るべきか

 

そうした能書きを差し置いたとしても、いつだってくらもちふさこの描く男の子は素敵だ