一昨日から"An ABCs of Opera(オペラのABC)"について、だらだらと書き連ねています
今夜は『ラ・ボエーム』。私のみならず日本中から、のみならず世界中から愛され続けているオペラにおける王道的作品と言えましょうか。さもありなん、この物語には人気作に必要なあらゆる条件がそろっています。しかも、あのジャコモ・プッチーニによる情感豊かな音楽と来たら、これがオペラ作品の代表と謳われるのも頷けるというもの
あの1996年度トニー賞ミュージカル部門作品賞を受賞した『レント』も本作を翻案したもの
いわゆる神職者や貴族にとっての娯楽として隆盛を極めたオペラ作品であるだけに、どうしても時代が下るまでは聖書を敷衍した内容や主役格に貴族または貴族然とした人物像を据えたが多い。昨日取り上げた『アイーダ』にしてもタイトルロールであるアイーダは王女である
今作の登場人物のほとんどは貴族でこそなくともロドルフォをはじめとする男性陣は富裕層である出自が自明だ。その主人公であるミミは、当時の市井に身を置く女性にとって最も近しい自立の道であるお針子であり、まさに世相を反映している存在であると言える
かたや明日の記事で紹介する予定の『カルメン』は、いわゆる当時の庶民にとっても被差別階級の代名詞のようなロマ族出身で、そうした事情から全編の作曲を手掛けたビゼーの存命中に人気を博すことはなかった。まるで異なる社会を舞台とした三者三様の世界を「オペラのABC」と見極めて提唱しはじめた人物の審美眼が素晴らしい
そうした前例がありつつもパリの街角に密かに寄り添うボヘミアンたちを描いた『ラ・ボエーム』は、現代に至るまで変わらぬ喝采を浴び続けている。それってすごいことだよね
そうした物語上の理由も然ることながら、どの楽曲を切り抜いても名曲ばかりであるっていう前提については言わずもがな。すぐ上の動画は、この作品の主人公であるミミが自己紹介している場面で歌われるアリア
まだ出会ったばかりなのに、すぐに心を通わせ合う二人。このあたりも王道的展開だよね、この世に運命の恋があることを信じさせるには充分過ぎるほどに
しかしながら、どんなに輝かしく甘美な時間もやがては過ぎ去り、あんなに幸せそうだった二人に別離が訪れる。こうした起承転結など物語上の骨子がしっかりしている点も人気の秘訣といえるかも
それは後ろ脚で砂をかけ合うような厭らしいものではなく、お互いのことを思い合うがあまりの悲しい別れ。そこに「正義」も「過失」も説くことができない理不尽で美しい別れ
一方、彼らの友人であるマルチェッロとムゼッタは喧嘩別れしています。この場面を観るたびに「どうして愛し合う者同士が別離を決めなくてはならないのに、この人たちはこうも自分勝手なのか?」と毎度激しい嫌悪感にさいなまれるのだけれど、さまざまな愛があるもんね。こればっかりは仕方がないね
先の別離について逡巡するロドルフォとマルチェッロ。確かに軽快な旋律から始まって、結局は泣かされてしまう聴きごたえある一曲ではあるものの…「ちょっとむさ苦しいんだよね」って思っていたら、なんと思わぬ花が添えられていた。全然関係ないとながら、昔美大志望だった友人曰く、こういう絵のモデルさんって大変ようだよね
この曲中でロドルフォが抱き締めているのは、以前彼が買ってミミが残して行った帽子である。いわゆるボヘミアンな生活を送る彼らの部屋で唯一の「装飾品(美しいもの)」。これまではミミとムゼッタという「花」がいたけれど、彼女たちを失ってしまった今となっては、何にも代えがたいもの。先程の「むさ苦しさ」がここに生きて来るんですね。よくできた脚本だ
そして、周囲の友人たちとロドルフォに見守られながら、その祈りも虚しく息を引きとるミミ。その直前にコッリーネが歌うこの曲は、しばしば音楽評論家たちにこぞって「作品中で最たる名曲」と評される。個人的にも異存ありません。この物語上の特性がすべてここに集約されていると思うから
あれだけ『アイーダ』をぼろくそに遣り込めたのに、そんなことはミミに対してはしません。だって、彼女は王女でも公爵令嬢でもなく、ただのお針子だから。別段に容姿端麗である必要性はありません。ミミに求められているのは、「何処か放っておけない愛嬌」と「儚げな容姿」のふたつだけ。とはいえ、これらを醸し出す以上に大変なことってないような気もする