昨日の記事を何気なく読んでみたら、自分が書いたものでありながら、その長さに辟易しました。とはいえ、あまり機会のないことなので、あのようにドン・ジョバンニについて考えるのは大変楽しかった

 

それに引き換え、今夜の表題の件は憂鬱です。なぜなら私にとってアイーダは「お気に入りの女主人公」ではないから

「じゃあ、なぜこんな記事を書こうと思ったのか?」って訊かれたら、それは「オペラのABC」を紐解く上で、後日に控えているミミとカルメンに対して示しがつかないと思った次第です。所詮は「誰が演っても"いい女補正"とやらが発動するんじゃ?」とか思ったりして。それでも要所における感情移入を可能にする、ジュゼッペ・ヴェルディの手腕に素晴らしいと感じ入るばかりだよ

 

 

先日惜しまれつつもこの世を去ったフランコ・ゼフィレッリ。彼が生前に手掛けた作品は数多あれど、先日METでフィナーレを迎えたこの演出こそその代表作の一つといっていいだろう。そして、普段はあまりオペラ作品をはじめ音楽と接点がなくても、「この場面なら記憶にある」という人も少なくないんじゃないのかな。特に東西問わずサッカー愛好家にとっては「オペラといえば、これ!」って声はよく聞く


それにしたって……あまりにも日本人の『アイーダ』信仰って度が過ぎていやしないかな。私やそれに近い世代にとっては「音楽の授業で初めて習うオペラ作品」といえば、もっぱら『アイーダ』を指した。今もそうかな? 何かを教わるのなら、そこには必ず理由があるもの。今以ってなお、その意味を享受できずにいる残念な私です

 

 

とある調査ではこんな結果が出ているにも関わらず、この暴挙である。もし私がイタリア人なら鼻で笑ってしまいそうだ。いかに新国立劇場の最寄りであるにしたって、ほかの選曲ができそうなものじゃない? 我が国にだって著名な作曲家はたくさんいるのに、いつまでも脚光が当たらないのは「残念」の一言では言い尽くせないよ

 

確かに『アイーダ』は名曲ぞろいだ、それは否めない。そのあらすじにしても「反権力」・「果たされなかった平和」・「悲恋」など、いずれも名作の必須要件を満たしてはいる。なのに惹かれない

 

その理由は、私が「平素聴き馴らされた音楽大嫌い病」を患っているせいばかりじゃないと思う。恐らくは…何だろう、やっぱり政治色が強すぎるせいかな。そうした表層をいくら西洋人が擬えようとしても、ひたすら薄ら寒さが拭えないとでも言おうか

 

 

それに、この主人公であるアイーダの性格にも共感を呼ぶ節がまるでない

 

何をされても忍耐に忍耐を重ねるのは奴隷だからなんだよね。それでもご主人様が心寄せるラダメス将軍が好きなんだよね? そうした前提がありながら、彼という最愛の人を陥れるような行為に至るというのがあまりにもご都合主義的で、私の理解に及びません

彼女はいわゆる「(個人的に抱いた)思慕」と「(誰もが生まれ持つ)郷愁心」、そのふたつの愛の間でもがき苦しむ。本来なら重なり合って大団円を呼ぶはずのものが相反してしまった。それはとても悲惨で憐れなことだ。その苦悶の表情は、それを見る誰しもの胸臆に深い憐憫を誘わずにはいない

 

だからこそ、そうした大義の前に唐突に提示される「死」という選択の暗愚が目立つ。だって考えてもみてほしい、まだ夢や希望を信じてその気持ちを芸術に託そうという気概を燃やしはじめた矢先にこの結末に出遭わされたことを。あろうことか人生で最も多感な思春期に観て、まるで目の前ではしごを外された気がした時の絶望は生涯拭いようがない

 

「この状況を前に死を選ぶような作品を、将来に希望を持つべき私たちに見せるって?」、「超一流のクリエイターたちが雁首揃えて作り上げた傑作がこの結末なの?」

、「それをスエズ運河開通の有史以来多くの老若男女が愛して来たって、どういうこと?」

 

 

私にとっての『アイーダ』は、ただヴェルディが凝らした技巧がすべて。そして、それを叶えるリリコ・スピントの美しさには悶えんばかりだ

 

この曲が作中で一番好き。この世界で一番貴いものはやっぱり愛に違いないけれど、それを抱き続ける肉体には与えられた刻限がある。しかし、あらゆるしがらみを解き放つこの瞬間に2人の愛は永遠になるのだ

こう書いてしまうと乱暴ではあるものの、どんな誤解も恐れずに言うなら、よく似た傾向を持つ作品として『ロミオとジュリエット』がある。あれが名作と呼ばれるのは、まだ二人がとてつもなく若い10代前半にあるからだよね。あんな夢見語りを大人が演じるとなったら滑稽だよ

 

そう思えば、つまるところ「登場人物の年齢設定」って大切だな。そのことを『ラ・ボエーム』はよく心得ている…と件の作品を観るたびに唸らされてしまうほどに