初めてこの腕に抱いたのは昨日のことのようですが…先日、我が子が無事に1歳の誕生日を迎えました

 

えっ、早い…早すぎる…! この1年は、恐らく人生で最も早く過ぎた1年でした。こんなに月日の経過を早いと感じたのは高校2年生の夏休み以来かも

 

この1年を振り返ると、我が子はあまり手が掛からない子のようで、平素からあまり手を煩わされるということがありませんでした。そればかりか今までに理由なく泣いたことがなくて…そんなことってある? こうした赤ちゃんらしからぬ行儀のよさが逆に心配になるくらいです

 

誰に見せても人見知りもせず、どこでも「こんないい子はいない」と言われ、私自身も姪や甥を見て来た経験から目を白黒させてしまうほどビックリ。あまり育てやすい子ではなかった私。どうやら夫に似てくれたよう? 「最も育児がツライ」と言われる生後3か月に連続して12時間寝るって…(;'∀')

 

とは言え、我が子としては本人なりに譲れない主張がキチンとあるようで、いつも上機嫌なのにも関わらず、先日かなり大泣きした日があって、その時は、

飲み物→ごはん→おやつ→おむつ→室温→おもちゃ→寝かしつけ→…

と、根気よく一つずつ可能性を潰して行ったのですが、その結果はまさかの、絶対に聴きたい一曲があったが正解だった時には苦笑を禁じ得ませんでした

 

「あ、そこは私に似ちゃったんだ…(;´∀`)」みたいな…

 

 

「子守唄を歌って寝かしつける」って、ドラマの中だけの話だと思っていましたよ…。現実にそういう子がいるなんて。それが自分の子だなんて、世の中本当に分からない

 

 

確かに妊娠中に『ドン・ジョヴァンニ』やブラ2を聴いたら胎動をよく感じた。今では1日に何回も「きらきら星変奏曲」とブラームスの子守唄を歌っているので、幾星霜の時を超えて、この遠い異国から、この2人には本当に感謝を禁じ得ません…

 

ちなみに、妊娠中の記録としては、私が大して好きじゃないからだという前提を踏まえても、

ヴェルディ→× プッチーニ→× マスカーニ→× ロッシーニ→◎△×が混同

でした。うん、余計な心配をしちゃったよね、ワーグナーとかあまりにも動かな過ぎて!

 

 

 

 

さて、表題に移ります。この1年間に何作品か映画を観ました。その中で印象に残っているものについて書きます

 

巷の基準を知らないけれど、私は自己自認においては概ね映画が好きです。でも、それには大変なムラがあって、例えば観ない月には一本も観ないのに、よく観る時には画面に齧り付きで日に7本観たり徹夜したりと、かなりの偏りがある。しかも、いわゆる有名作や大作はほぼ観ておらず、せいぜい『タイタニック』くらいが関の山

 

それから、これは性格によるもので、ほかのすべてのことにも言えることとして、どんなに好きなものでも距離をとりたい時も多くて、公開前に何があっても絶対に観ようと誓ってすらいた作品でも、しばらく時間を置いたり、あるいは「今後××の時に観ることにする」とか「□□歳になったら」と決めたりする

(余談だけれど、だから、『ハムレット』の「尼寺へ行け!」という言葉はよく分かる。それに対して、まだ歳若いオフィーリアが絶望して身を投げるのも同じくらい分かる)

 

そんな私にとって、長らく「金曜ロードショー」は愛憎のこもった番組だった。ちょうど観逃していた作品を流してくれて非常にありがたいと感じる時もあれば、今は観たくないのに否応なしに電波に上げられて興醒めさせられる時も。今回は前者の方で、たまたま放送すると知った『魔女の宅急便』を予期せず観ることに

 

ほかの誰かにとっては何気ない日常の一コマかも。私にとってはこの作品のキモは冒頭で、主人公であるキキが旅立つと決めた際に、お父さんに「……よ~だ!」って言う行り、その後に2人で笑い合ったのを観た時に、"こんな親子関係もあるのか!"ととてつもなく驚かされた。我が家では父親にそうした軽口を叩くことは絶対に許されず、しかも容赦ない鉄拳による教育だったので、もし私がキキのような口調で接したなら、微塵の斟酌もなく握りこぶしが飛んで来たと思う

 

この作品を初めて観たのは、まだキキよりも幼い頃だったので、ただ漠然と「私も13歳になったら、こんなに賢くたくましくなれるのかな?」って思っていたものの、そんなことは全然なく、ひたすらキキの自己肯定感に驚かされる日々が今でも続いている

 

もしも私がキキだったら、恐らく親には何も告げずにひっそりと出発して、自分が魔女であるっていう血統を隠して、それとは無縁の仕事に従事して、自分に求婚して来た中で一番素敵な鼻梁を持つ人と結婚して、その後の余生を終えるかな

 

私は自分を好きになってくれた人の中で一番夫の顔が好きだったので彼と結婚したけど、たまたま彼が人格者でもあっただけで、もしかしたらとんでもなく不幸になっていたかも。こういうところがだめなんだろうな~!

 

 

 

 

彼の求めに応じて、『I am Sam』も観ました。この作品は公開当時に映画館でも観た

 

成人でありながら7歳程度の知能しか持たないサムが周囲の力を借りて育児をするも、これまで手塩に掛けて育てた愛娘が8歳を迎えたことで親子でありながら立場が逆転し、その育児に障壁が生まれる…といった内容

 

具体的には、その障壁とは主に児相(児童相談所)で、彼らと法廷で戦うことになる。主人公のサムをショーン・ペン、その娘をダコタ・ファニング、そして、彼らを成り行き上サポートすることになった弁護士にミシェル・ファイファー

 

先述したように、この作品を観るのは2度目のこと。今作公開当時の10代では、ひたすらサム&その娘のルーシーを追っていたものの、今この歳で子持ちになって観ると、断然ミシェル・ファイファーにこそ主眼は注がれた;「息子のためを思って働いているはずが、彼のせいで仕事に支障が来たしそうになると、彼を思わず怒鳴りつけてしまう。いつも自省しているわよ、"私は悪い母親だ"って!

 

そんなの、私だっていつも思っている。我が子が「まだ寝たくないのに眠い」時に寝かしつけをするのが適当かは分からないし、その時間が来たからといって嫌がっているのに無理にごはんを口へ運ぶとか…およそ枚挙に暇がない程に育児の道は極めがたく、大変厳しく、それだけ果てしがない。相手にするのが一人の人間だから当然だけれど、絶対的正解がないのもひどく堪える

 

これまで他人を羨ましいと思う感情は不明瞭なものだった、今ならよく分かる。バーニー・エクレストンの子どものように国家予算単位の愛情を注ぐことは不可能だし、デイヴィッド&ヴィクトリア・ベッカム夫妻の子のようにいい遺伝子をあげられない。この子に差し出せる「ひのきのぼう」が脆弱であることを申し訳なく思い続けている

 

 

 

 

そうした鬱屈を救ってくれたのが『市民ケーン』だった

 

あらゆるメディアを買収し、愛以外すべてを手に入れた新聞王ケーンは「薔薇の蕾」という謎の言葉を遺して亡くなる。誰も気に留めないその言葉は、莫大な富を手に入れたことで離れざるを得なかった故郷に端を発していた…というのが物語の粗い顛末なのですが、「もしケーンがそのまま雪深い田舎で育っていたら?」という疑問の解は明確で、それは今の私にとって、最も悩んでいることに対する一番欲しかった答えだった

 

何を人生の目標と定めるかは人それぞれだし、我が子の望みは分からない。それでも、自分の家族が大好きな私にとっては、こうして皆が我が子を愛してくれてうれしい。今自分が持てる限りの愛情を注ぐことしか出来なくても、それでいいのかは分からないとも、少なくともないよりは全然マシなんだから

 

我が子にとっていい母親じゃないなって自認する時もある。その事実を我が子が寝静まった後で人知れずお酒でごまかすのなんて、もう最悪。でも、我が子の前では、とりあえず何はなくても笑顔でいようって決めていて、恐らく私から引き継いだ気質であろう、あの子の好きな読み聞かせとお歌をたくさん聞かせられたら、それでいいかな

 

 

このドラマの家族がそのまま我が家って感じ。次々と問題が起こるのに、なぜか楽しいの

 

 

いつかの日に思い出すたびに心うずくような、かけがえのない日々を過ごしている

 

いつまで一緒に暮らしてくれるのか? それは分からないけれど、きっとあっと言う間にこの腕を擦り抜けて行ってしまうよね。だって、人生は楽しいことほど早く過ぎ去ってしまうものだから

 

この1年が最速だったように、これからの日々もまた光速で過ぎ去ってしまうことと思う。その日のための心の準備をしながら、この子といる毎日を楽しみ抜きたい所存です