今月はなんだかんだ多忙に感けたゆえ、自分にとって未知なる作品やいわゆる新作はあまり観賞する機会に恵まれなかった。最も馴染み深かったのは『ランメルモールのルチア』で、今月およそ90作観るなり聴くなりした中の1/5程度は同タイトル別演出版だったかもしれない

 

それらの中で特に印象に残ったものが以下;

 

最近は現代に舞台を読み替えた翻案版が氾濫しているし、それはなぜかギャングスタが多少なりと絡む結果ばかりを生んでる。「そうするのでなければ現代へ翻案する意味がない」と同義であるのが現状な訳だけれど、まったく安易すぎて辟易さえ誘う。そうした点から言えば、この元来が凄惨極まる実話に用いた着眼点は評価に値しよう。ただ、今作中の映像に割かれた比重の大きさにはオペラ愛好家の賛否は分かれそうではある。それと意図した物語を表現するのに持って来いの実力のみならず話題性にも優れた歌手陣は観応え聴き応え共に文句のつけようがなく、それに助けられている部分も大いにあるのでは

 

多くの支持は得られないだろう持論として『椿姫』のタイトルロールであるヴィオレッタには登場時には少なからず鼻持ちならない高慢さが欲しい。そうであるからこそ高嶺の花である彼女を崇拝するアルフレードの直向きな純粋さが物語上の意味を持ち、やがて起こり得ないはずの化学反応に類まれなる輝きとそれによる感動を呼び起こすというもの。その条件を満たすのにこれほどまで好相性な組み合わせがあるだろうか。実際にこの演出を観劇した感想としては、実によく社交界から臨終まで移り変わる場面の動静が練られていて、まるで観客席を飽きさせるということがない。こうして子を持つ親となった今では老ジェルモンの心境がこの上なくよく分かるよ

 

「プラシド・ドミンゴ指揮」にはじまり歌手陣も揃って仁(ニン)じゃなく放置し続けてた。こうして期待を掛けなかったことも一因としてあるだろうけれど、実際に観てみたら想像を遥かに上回る出来映えだったことに驚いてる。こと舞台装置に関しては勿論そこに世界観を再現する大道具と小道具それらを引き立てて余りある照明の使い方とその効果が大変よく作用して素晴らしい。なぜこの作品であるかは疑問だ、しかしながら私が興行主でも2人を起用したいと思っただろう。この頃は話題性先行と揶揄されたネトコと実力において申し分ないアラーニャを組ませることには多大なる意味がある。その商業性も然ることながらMETは人材の育成に本当に長けている

 

何度でも言うよ、やっぱりオペラは大団円で幕を閉じるべきなんだ。我が国において今日では上演される機会の少ない『ヴェネツィアの一夜』こそは、それに相応しい作品と言えよう。その「オペレッタ王」なるふたつ名をほしいままにしたシュトラウス二世の技巧がふんだんに凝らされ、ここに至るまでに制作陣も歌手陣も共にやるべきことすべてをやるべく力を尽くしている。そうだね、肝心の音楽面については…うん、それについてまるで詳しくない私にも真贋が分かるよ。けだし一分の隙もなく完璧な設えのオペラの存在は重要だよ、とはいえ私が個人的に観たいと思うのはこういうのだ

 

その舞台が精肉所ということで「あれ、ケント・ナガノ指揮のマリウシュ・クヴィエチェン主演作と同演出かな?」って思ったら違った。ええ…どんだけ精肉所が舞台の演出あんの…。これが何かしらの風刺や皮肉を訴えたいことは分かる、同じ手法ばかりを連綿と繰り返しても仕方がないから前衛的な演出が求められる点についても了解する、それでも自分が仕事や育児を離れた束の間に垣間見る非日常がこれだったらひどく落胆するだろうな。どんなオペラであれ今日まで名を残し我々の目に触れるような作品には全キャスト一堂に会する最高潮の見せ場が用意されているものだ。それすらもグロいって、一体どういうつもりでこれを?

 

以上、「今月観て印象に残っているオペラ」でした。私にとって土塊の一部となる作品もほかの誰かにしてみれば取るに足らず見過ごしてしまう要素を孕んだそれであるかも。その前提を度外視したオペラ評があまりにも多過ぎるよ、かく言う私自身も戒めとするとしよう