「世界のオザワ」として知られる指揮者の小澤征爾が東京都内にある自宅で心不全のため亡くなっていたことが9日報じられた

 

小澤氏は1935年旧満州国奉天市(現・中国藩陽市)生まれ。中学ではラグビー部に在籍し、その活動に熱中したものの、試合中大怪我を負ったことをキッカケに指揮者を志し、渡欧。第9回ブザンソン国際指揮者コンクールでの優勝を皮切りに賞レースを総なめにし、カラヤン、ミュンシュ、バーンスタインらに師事した後に帰国。NHK交響楽団の招聘を受けて指揮を務めるもボイコットされ(俗に言うN饗事件)、以後はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などを指揮。アメリカ5大楽団のひとつであるボストン交響楽団の音楽監督として、およそ30年にわたり活躍した。同楽団を率いての来日公演をはじめ、1992年から毎年にわたって長野県松本市で開催されている「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」など国内外で精力的な活動を続けてきたが、晩年は食道がんや腰椎の骨折など相次ぐ体の不調に悩まされていた。享年88歳

 

 

この訃報は、生前における氏の国際的な活躍と同じく世界中で、その偉大な功績とともに伝えられた;

 

読売新聞による英字刊行紙The Japan News

Conductor Seiji Ozawa Dies at 88 After a Career of ‘Firsts’; Known for ‘Balletic Grace,’ Passion for Musical Education

「彼の功績はしばしば『日本人初』『アジア人初』など『初』という単語を用いて語られる」

 

こちらは対日姿勢とその言論が厳しいことで有名なニューヨーク・タイムズ

Seiji Ozawa, a Captivating, Transformative Conductor, Dies at 88

「モップみたいな頭」「誰がどう考えてもボストン響における29年は長すぎ」など扱き下ろす一方で、「東洋人でありながら西洋音楽を理解していた」「彼は指揮者として就任した組織を必ず改善した」とも

 

在留外国人向け刊行紙を始祖に持つThe Japan Times

Seiji Ozawa, Japan’s trailblazing maestro, dies at 88

「彼は長い髪にタートルネックやアクセサリーを身に着け、その立ち居振る舞いはほかの誰にも似ていなかった」
 
フランスの国際ニュース専門チャンネルによるフランス・ヴァン・カトル
「現ボストン響音楽監督であるアンドリス・ネルソンスは『偉大なる友人、素晴らしい先輩、見習うべき音楽家であり牽引者』と綴って死を悼んだ」
 
世界最長の歴史を誇るレコード・レーベルであるドイツ・グラモフォン社
「以前は滅多に演奏される機会がなかったベルリオーズ、デュティユー、フォーレやメシアンといった作曲家たちの作品を画期的な解釈を以て取り上げ、新しい世界の扉を開いた」
 
中国国営通信社である新華社通信

「彼の音楽的才能と長きにわたる輝かしい活躍は、彼に国際的な賞の数々と名誉をもたらした」。しかしながら見出しは「日本人」か、そうだよね…

 

 

こうして訃報を調べてみるだに驚かされたのが偉大な功績は無論その人柄について称えた内容が非常に多いということ。それは逝去の報に際して悪しざまに非毀することなどないでしょうけれど、だとしても随分と実を伴った逸話に富んでいるように思う。数多く残された映像や対談集の数々からも気取らない素顔が垣間見え、それは後進の育成に労を惜しまなかった活動の軌跡からも覗うことが出来る

 

確か2002年だったかな、「ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート」の最後に各国ゆかりの楽団員たちがそれぞれの言語で新年の挨拶をするくだりがあって中国語で観客席へ呼び掛けられていたのが印象深かった(※日本語で挨拶したのはキュッヒル真知子を妻に持つ当時コンサートマスターだったライナー・キュッヒル)。私にとっては、以前の推しが繰り返し来日するキッカケを作ってくださった大恩人であった

 

先日活動引退を発表された著名な指揮者がこのようなことをおっしゃっていた;「在りし日の精彩を欠いた姿を人目にさらして、それでも指揮者稼業にしがみつく人もいる。それは美学に反する、僕は精悍な姿で聴衆の記憶に留まりたい」。誰のことを指しているのかは明らかであるにしろ、どちらの人生哲学がより優れているかなど誰が決められるだろう

 

「世界のオザワ」には、彼のみにしか知り得ない孤独も苦悩もあったことは想像に難くない。そうした艱難やしがらみを振り払ってまで後進のための道筋をつくることを選んだのだ、文字どおりにその偉大なる名前と「風変わり」と揶揄されることも少なくなかった風貌に表現された肉体と不滅の精神のすべてを捧げることを。今生における業を為し終えた、これからは安らかに