今年からようやく育児をちょっと離れて短い時間ながら働き始めてるのだけれど、常にツッコミどころに事欠かない。要するに面白い日々を送っている。先日の記事で書いたとおりに誕生日を迎えて、また一つ年齢を重ね、その年月の間には人あしらいに長けて行く一方で基礎化粧品の金額は嵩を増し…それらすべてを含蓄する言葉が「老成」なのだと納得する日々が続いてる

 

例えば、まったく新しい曲を100曲聴くなら自分のお気に入りを100回聴きたい厄介な人間であることを自覚している身ながら、これまでの人生で「お気に入りじゃない」と切り捨てて来たものの中で変化を遂げた存在もあるってことだ。かつて「じゃなかった」ものをまとめてみることにした

 

 

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大昔に「いろいろと無理だ…」って脱落した『クイーン・メアリー』。いよいよ他に観るものがなくなって観始めたら、これがいい意味で期待外れに面白かった。何をしててもどんな時でも主人公のメアリーがとてつもなくかわいい。彼女のために「こぼれ落ちそうな瞳」って美辞は生み出されたのかもって思うくらいに。彼女の親友たちもそれぞれに個性あふれる魅力で目が離せない。「この子だけ興味ないな」って思った子はすぐ死んじゃったから、やっぱり視聴者ほぼ全員と同意見だったのかもね

 

「巷にあふれる海外ドラマの多くがそうであるように、この作品にもイケメンは登場しないんだな…」って諦めていたから、最初期にカッスルロイ卿が出て来たのはうれしい誤算だった。主人公の相手役である後のフランス国王フランソワは演技がド下手かと思ったのに、実はそうじゃなかったのもよかった。その恋敵である異母兄のバッシュは常に髪型が変で、彼が登場するたびに毎回笑ってる

 

清王朝最後の皇帝にして満洲国唯一の執政および皇帝であった愛新覚羅溥儀の弟の溥傑と、その妻として彼に人生を捧げた嵯峨公爵家令嬢の浩の数奇な運命を描いた『流転の王妃・最後の皇弟』。私は二夜連続放送当時も観たし、今でもたまに観直す時がある。この必ずしも史実に基づいているとは言い難いドラマは、そうであるにも関わらずに、私の心を惹きつけて離してくれない。例えば、今作品放送当時より少なからず中国近代史に明るくなった現在では、この5時間近い物語中に少なくとも50個は間違いを見付けることが出来る

 

この不遇な皇弟こと溥傑に扮する竹野内豊に、何度も恋したよ。今もその気持は変わらないけれど、その兄である溥儀を演じた王伯昭の演技が上手過ぎる。それにばかり気を取られてしまう。「そうでなければ、こんなに中国近代史に傾倒することもなかったのに…」っていささか恨めしく思いさえするよ。しかも、何気なしにYou Tubeで検索してみたら歌唱力も抜群なのもスゴい。なぜ神は才能を一般に流布させずに、こうして一部に偏らせるのか。もしかして無能か? おかげで目を離すことさえ出来ないよ…

 

この映画は公開当時も観たし、それから時を経て大学時代にロシア文学の授業でも観た。今本棚を確認するだに、恐らく小説も読んだのだろう。でも、今となってはまったく記憶になくて、つまりは当時の私の理解にはおよそ及ばなかったのだと思う。そのことを彼女と同じような境遇にあるこの年齢になって痛感させられている

 

目下コロナ禍にあって実家の近くに引っ越したけれど、彼らとの付き合いではようやくピアチェンティーニ・タワー並みに築いた自己肯定感を瞬く間に更地にさせられるんだ。もちろん夫のことは愛しているし子供だって可愛い盛りだし、今は仕事にも恵まれて趣味も充実してる。でも、ふとした時に何もかもから逃げ出して、誰も自分を知らない場所へ行きたいと思ってしまう。もしブロンスキーみたいな人が現れて「もう家族には会えないよ」って言われたら、その手を取ってしまいそう

 

そう考えるだに、これは恋愛を主題とした作品ではないんだな。同じように『危険な関係』も『ドルジェル伯の舞踏会』も『エリザベート』も違う、現在の私にとっては。誰かがエッセイで「まだ禄に話も出来ない息子を捨てることは出来ても自我が芽生え語彙も豊富になった彼に縋られたら後悔しかないのは分かる」って書いてたのが忘れられない。後年になって後悔しないように踏ん張るより他にない

 

昨年に『ストーリー・オブ・マイライフ/私の若草物語』を観たら存外によくて、もっぱら各種ストリーミング・サービスで同原作の映像化ばかりを観ていた。あのハウス食品提供の『愛の若草物語』も観たよ、これもよかった。でも、私にとっての『若草物語』といえば、自分もまだ"若草"だった時分に観たこれをなくして正解はないんだ

 

主人公であるジョーを演じるウィノナ・ライダーのあえかなる美しさと、そうであるにも関わらずに弾けるような生命力が眩しい。…というよりも、この作品に登場するほぼ全員が眩しい! 唯一の例外として、ああまで米国人が好きなクリスチャン・ベールの顔が好きじゃないのが心の底から残念に思えるほど

 

最近これを観返して驚いたのは、かねて文筆業を志していたジョーがニューヨークで懇意となったベア教授に連れられてオペラを鑑賞する場面。彼らが連れだって足を運んだのがメトロポリタン歌劇場であることも、そこで鑑賞しているのが『真珠採り』であることも当時は門外漢だったから知らなかった

 

これを読んでいるオペラファンがいるとしたらお気付きだと思うけれど、今から数年前にMETで同作が上演されるにあたっての謳い文句は「初演以来1世紀ぶり」だった。その初演では1916年に、かのエンリコ・カルーソーがナディール役を歌っているのだけれど、まさにこの公演をジョーが観ているという胸熱な展開に思わず叫んでしまうのは無理からぬことだった(※それにより我が子は昼寝から起きた)。該当の場面もYou Tube上にあるにはあるものの、若干アスペクト比が気になって貼付できなかった

 

作中で聴けるのは、かつての思い出を忘れられないナディールがレイラを求めに来る第二幕。こんな男を愛せるレイラの気が知れん…

 

 

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そもそも彼の歌声にだって一目惚れした訳じゃないんだから

 

これは誰にとっても同じことが言えるはずだけれど、自分にとって絶対的かつ永遠性を持つ感情なんてないのかも。かねて甥が生まれるまでオペラにハマることも、それなしには生きられないかも知れないと恐れ慄く日々が来ることさえ想像だにしなかった

 

 

これから何を愛し、どれに愛想を尽かすにせよ、どちらも自分の手の及ばない問題だ。それは恋に落ちることや醒めることと同じ−−ほとんど運命に思える。つまりは呪縛だよね、たとえ夢にあっても現に醒めてもいつでも心身を否応なしに支配してくる。

 

「そこに自らの意思は介在しない」、だからこそこの歌声に一日も長く恋していたいと願うんだ。過去には到底誉められないようなものに没頭したし、実際に身を窶した。自分は不埒だって知ってる、だから余計に