相変わらず"キラキラ☆ライフ☆彡"どころか「何かの冗談ですよね?」みたいな日常を過ごしてる人間の生態をご提示している当ブログです。さっき地上波で「人生で印象に残っている乾杯」みたいなのを特集しているのを横目に観たけれど、それを訊かれたのが自分じゃなくてよかったよ。もしそれに答えないと死ぬとしたら、「いつかのNHK祭の『乾杯の歌』でアムロ・レイの物真似をしてた錦織健さん」以外に正解を持っていないから

 

自分の体験談だけで言うなら揃いも揃ってどれも健全じゃないし、そうじゃない出来事なんかはもはや覚えてもいないし。なんで「鳥人間コンテスト」はあるのに「だめ人間コンテスト」はないんだろう。もし存在したらぶっちぎりの一位だよ、そのことを刹那忘れさせてくれる素晴らしい音楽をそれと教えてくれる設え(ジャケ写)がどうしても必要だった

 

 

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「お気に入りのジャケ写」を挙げるなら、これを措いてほかに語りようがないよ。その楽曲ひとつひとつがどれも甘美であるのみならずにそれらによって構成される世界観がもたらす完成度に聴くたびに驚嘆させられる。たった一粒で万人を魅了し得る真珠が連なって首飾りになれば、それが芸術品であると讃えられるように

 

なんと雄弁にそのことを教えてくれるジャケ写だろう。これを一瞥するだけで物語は始まって、そして余すところなく広がる。それに酔い痴れたい心に寄り添う、どれひとつとして間違いのない完璧な設え。こんなに肉体を持たない対象のことを愛せるなんて知らなかったよ、それを教えてくれる存在のことも

 

彼らにとって2枚目のアルバムは、そのバンド名である「ポーティスヘッド」をそのまま名付けられた。概して音楽ってものは聴き手である我々に多かれ少なかれ覚悟を迫って来るものだという前提はあれど、ここで求められるそれは生半可なままではまるで通用しない。そして、私はそんな音楽が好きだよ

 

いつだって素敵な音楽はその真価を変えることがない、そんな常識はそれとして前作もこれも真夜中から明け方に掛けて聴くとなおのこと魅力を発揮してくれるよ。その際にはもちろん酔っていてもいいし、ただ街を徘徊するにもワークアウトのために走るにもいい。ああ、ただ読書は止めた方がいいな。あまりにも聴覚から来る情報が多すぎて、まったく内容が入って来ないから

 

別にピンク・フロイドのことを好きな訳じゃないし、そうだったことも経験上においてない。それでもこのジャケ写をはじめて見た時には心を奪われたし、そんな自分を責められないほど魅力に満ちたジャケ写だって今でも思う。個人的にはバブル崩壊やリーマン・ショックに見舞われつつも幸運な人生だとは承知していながら、それでも「今持ち得る幸せ」以上の何かに思い馳せさせるような物語性に富んでいる

 

これが松任谷由実のアルバムを飾るはずだったとそのいう事実にも少なからぬ衝撃を覚えた。こんな良案を排せる人間でなければ、そのスターダムにはのし上がれないということなのだろうね。その逸話があってもなくてもこのジャケ写が好きだよ

 

「この深紅の女性靴がコンチネンタルヒールでさえなければよかったのに」。このジャケ写をはじめて見た時はそんな風に思った、そうであれば心を奪われることなんて決してなかったのに。でも、もはや手遅れだった。ここで向かって右側の人物がその脚線美に纏っているのは光沢の具合から見るにスパンデックス製のストッキングだろう。その左手では煙草を燻らせながら、恐らくはそのためだけに組まれた右脚で相向かいの人物を過不足なく誘惑している。すべての悪徳が机下で行われているということは、普く巷に向けては一分の隙もない形骸を完璧に保っているはずだ。そうであるはずの事実にたまらなく惹かれるよ

 

ここに描かれた2人の関係もその発展性も分からない。もし確かなことがあるとしたら、このシアーベージュが密室ではバックシーム付きのブラックに変わる日があるってことだけ

 

実はレコード収集を始めたのは最近のことで、その理由は幼少期に母親に伴われてよく訪れた市街中心部に位置する商店街の一店で『ドン・ジョヴァンニ』が投げ売りされていたのを見掛けてしまったからだ。あたら切迫流産になって身動きが取れない中で、件の作品を毎日7公演ずつ繰り返すほど好きなことを知っていた夫からの提案で購入した

 

かくして発端となったレコードの約100倍の価格で手に入れたプレイヤーを駆使するべく収集を始めた私が「クラシック」でも「トゥモローランド」でも「クイーン」でもない分野ながら購入したはじめてのレコードがこれ。実際REO Speedwagonはどのジャケ写も物語性に富んでいて、たまらなく大好き

 

幼い頃からビートルズのジャケ写では、これが最も好きだった。そのことが不変の事実となったのは、さらに十数年を経てからだ

 

昔とある集まりで初対面の相手が着ていたTシャツを褒めたら、彼は「そんなに好きならあげるよ」と言った。それに付随する(携帯電話会社が契約時に提示する注釈と同程度に阿漕な)要求に応えるべく彼からTシャツを脱がせ、自分もその時に身に着けていたスウェットを脱いで代わりに着せてあげようとしたもののうまく行かなくて、ほかに方法を持たないまま、彼の望み以上になった行為でその代償を支払った。もし誉められた行いではなかったにしても「青少年の戯れ」の範疇には収まっているはずだよ、今も引き出しに収まったままのそのTシャツと同じように

 

もし故松下幸之助から「自分は幸運だと思う?」って訊かれたら、その答えは決まってる。だって、いつでも自分を待っていてくれる故郷があって愛する夫と子供がいて、もちろん仕事も趣味もあって、毎晩を音楽とワインと愛読書とともに過ごせるんだから。こうしてレコード収集をはじめた時に「いつかどこかのレコード屋でles baxterと出会えたらいいな」と思っていた。そんな願いがまさか一軒目で叶うだなんて予想だにしなかった

 

それでもごくたまには思いどおりに立ち行かなくなることもある。そういう時には「パン・ギャラクティック・ピザ」の誕生より前の、たった一枚のピザ配達で人生を終えたエイリアンのことを考えるんだ。自分のための時間と家族を含めた他者に振り回される時間の兼ね合いがとれた人生ほど素晴らしいものはないって思うよ

 

先達てまで動画を貼付していたにも関わらず、これだけが静画に甘んじざるを得なかったのは無論このインターネット上に存在しなかったからだ。これはChris AndersonによるLenny Deeの"Crazy Crazy"のカバー版のジャケットで、その楽曲それ自体についての軍配は後者に上がるのに、ことジャケ写においては語るべくもないよ。ある地方の一クラブのお抱え歌手だったらしい彼に関してはもちろんのこと、このデザイン分野において懐を差し出した人物に関してなど、もはや調べようもない。そう分かってはいるのに、彼女ないし彼について思い馳せずにいられないほどの魅力を余すところなく振りまいて来る

 

このレコードのリリース年が1970年代であることを鑑みるに、既に当時としてもレトロなデザインだったことになるよね。その仕掛けも何もかも本当に本当に素敵だ

 

まだ出会ってから日は浅いながら、私なりに見付けた法則性もある。そのひとつとして「10ccは概ね総合点が高い」ということ。つまりは、どれも音楽が秀でているのみならずにジャケ写に訴え掛けて来る物語性があるってことと同義だ。この作品に関して言うなら、その内ジャケットも含めて歴史に爪痕を残したそれとして語っても決して差し支えないんじゃないかな。いわゆるデザイン業を経験した身として、もし自分が今作を担当したとして、こんな最適解を出すことなんて可能性を考慮するだけで烏滸がましいだろう

 

今日ではハード自体とそれに適合した媒体の変化からジャケ写を軽視して著しい傾向にあるのが現状だ。それは嘆かわしいことだけれど、いずれ来るんだよ。「ジャケ写」なんて死語になる日がね。それでも残るいくつかの伝説があるとすれば、その代名詞となるだろう

 

先に断っておくとすれば、この楽曲自体を好きなわけじゃない。全然音楽的なことは知らないけれど、あくまで個人的な感想を述べるなら『皇帝ティートの慈悲』と『フィガロの結婚』を彷彿とさせる上に、そちらの方が商業的な視点から言えば食傷に対する耐性が高いと言えるだろうと思うし。なんだか歯切れの悪い言い回しになってしまったことからも明白なように分かるよね、要するにただこのジャケ写を気に入っただけだってこと

 

最近の我が子はあらゆる楽器に目がなくて、特にネ―チュ(クラリネ―チュの意)を聴くのもおもちゃのそれを奏でるのも大好きと来ている。そんな我が子に教わったよ、一般的にクラリネットとオーボエの差って音域だけじゃなく、そのリードも違うんだね

 

 

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以上、「お気に入りのジャケ写」でした

 

どんなに優れた音楽であっても出逢う機会がなければ、そうと知る術はない。どんなに人柄に美点があろうとも、それを分からせてくれる外貌なくしては知り得ないのと同じ。とはいえ、こうした法則性は今日においてはその限りではないのかな。だって、現代はtxtやmsgからはじまる友情や恋愛にあふれているように見えるもの。それはかつて萩原朔太郎と室生犀星が文通を通じて親交し、実際に出会った際にその嗜好や立場が違うことに幻滅しながらも、やっぱり無二の友情を取り戻して、それを続けたのと似ている

 

確かに人間は見た目が9割かも知れないよ。でも、その先を超えたすべてのことは些末で取るに足らなくなる。そうであれば況やレコードも同じだ、すべての見目麗しいジャケ写は単なる音楽との符号に過ぎない