そういえば、今新国立劇場で『ボリス・ゴドゥノフ』の上演がはじまったんですね。昨今のロシアとウクライナ両国のおかれている状況を鑑みるだに、何とも皮肉めいた蓋然性を感じるなどしました

 

「しかも、宝塚大劇場では星組が『ドミトリー』を公演中だしな…」って思っていたら、実際には『ディミトリ』という題名で、なぜか勝手に偽ドミトリーに関する物語なのかと勘違いしていたものの、まったくの無関係でした。こういう残念な勘違いが多いからだめ人間になるのか、はたまたその逆なのかは判然としません。そういうところも残念です。ぜんぶざんねん!

 

ところで、数日前に主要なオペラ関係の彙報を伝えるサイトで、こんな記事が目に飛び込んできました

 

Riccardo Chailly Responds to Ukrainian Consul over Teatro alla Scala’s ‘Boris Godunov’

 

この見出しのとおりに「リッカルド・シャイーが(上演作品である)『ボリス・ゴドゥノフ』に関してウクライナ領時館に答弁を返した」とのこと。以前の記事で各国歌劇場の上演予定作品について触れる中で「なんといってもスカラ座はシーズン開幕作となる音楽監督であるシャイー指揮、カスパー・ホールテン演出による新制作の『ボリス・ゴドゥノフ』が目玉だ」のようなことを書いたと思うのですが、どうやらそれに対してウクライナ領事館から「待った」が掛かるという前段があったもよう

 

昨日『月刊音楽祭』で日本語で大意をまとめたページも見付けたので、折角だから貼付しておきます

 

ミラノ発 〓 音楽監督のリッカルド・シャイーが反論、ウクライナ領事のスカラ座《ボリス・ゴドノフ》上演取り止め要請に

 

先述の前段に答えるかたちで、シャイーは現在のウクライナがおかれている国状に理解を寄せ、この戦争の一刻も早い終焉を望むとした上で、「政治とそれがもたらす結果が何らか文化に強制することはできない」と続けています

 

そして、なぜこの箇所が日本語訳ページにおいて省略されてしまったのかといささか理解に苦しむのですが、シャイーはまた、「シーズン開幕作である『ボリス・ゴドゥノフ』の上演取り止め要請に対する抗議のみならず、ロシア出身者の登用を引き続き継続する意向」を明らかにしています

 

 

個人的には、この意向をこそ取り上げたく記事を書いたといっても過言ではないほど感銘を受けた部分でもありました

 

かつて第二次世界大戦下のアメリカにおいて在米日系人は強制収容され、9.11の直後にはイスラム教徒が飛行機搭乗を拒否されるなど、いつの時代にあっても政治やそれを取り巻く情勢は、その結果的に光当たらぬ存在を産み出し、彼らに苦節を敷いてきました。一方で、無論のこと恩恵があったことも否定はしませんが、良かれ悪しかれ、それに文化が取り込まれることはあってはならないのです

 

これは昨今の#me too運動にも言えることですが、あくまで人物の素性や行いとその功績は切り離して考えられなければなりません。ましてや(元フィギュアスケート男子ロシア代表の)プルシェンコ氏のようにプーチン大統領を礼賛しているなら話は別ですが、ただ「ロシア出身者」というだけで優秀な音楽家や技術者を解雇するなどもってのほかです。自分自身の努力ではどうしようも為す術さえ持たぬ出自を取り沙汰することはヘイトスピーチであるばかりでなく、これまでの長きにわたって一定の水準を保ち続け、今後ますます発展を見せるべきオペラの沽券に関わる問題でもあります

 

あらゆる才能の持ち主によって伝統を継承し、時には新風を吹き込みながら、今日その裾野を広げ続けるオペラの矜持を今こそ示す時だと考えるべきでしょう。これ以上オペラのみならぬすべての文化が外的要因による、あらぬ干渉を受けないことを望みます