今年上半期は紙媒体に助けられて遣り過し、それがゆえに下半期は干上がってしまった歌劇畑を耕すようオペラを観てばかりいました。まるで誇張じゃなく、毎日の仕事や子供と過ごす時間のほかは、常に赤ワインをお供にオペラ鑑賞に耽っていたと言っても過言じゃないんじゃないかな。昨年まではとにかく旅行ばかりしていて自宅にいることの方が珍しいくらいだったから、そこから一転して腰を落ち着かせられたのも大きかったかも知れない

 

「今年観て印象に残ったオペラ作品」自体は、既に数日前の別記事に上げた。そのいずれも何年も前に上演された作品がほとんどだ。さにあらんや、昨日まで未知の存在だったものに対して品隲し得るほどの興味なんて持てないから。私に繰り返し求愛し続けてくれた夫のことを軽視してたし、我が子を出産してはじめて抱いた時も「命を懸けてもいいけど生き甲斐にはならないな」って考えてた。つまるところ愛には時間が必要

 

それらの鑑賞から少々の時間が経ったから、その中でも印象に残った作品について、ここでも書いておこうと思う

 

 

『神の子羊』(ラテン語で言うところのアニュス・デイ)と題された今作は、同名の小説を原作としてフェリクサス・バジョラスによって作曲されたオペラ・バレエである。通常オペラの作品上に組み込まれたバレエの多くは、そこに華やぎを加えて彩りを添えることのみが仕事であるのに、ここでは違う。そればかりか、そうした現状に一石を投じたいようにさえ思えてならなかった。今日でも旧帝ロシアにとって国技の代名詞であるバレエを象徴的に用いている

 

旧共産圏の構成国であったことでも知られるリトアニアの戦後を描いたこの作品は、近現代を舞台にしていることや反体制的な内容から、その完成が1982年であるにも関わらずに、こうして初演されるまでに約40年の時間を要した

 

常ならざる歴史のうねりの中で、あえなく忘却の彼方に埋もれてしまう意匠も決して少なくないことを知っている。いつかの上演を胸に誓った人々の、そこに燃える情熱はいかばかりだっただろう。今晴れて「満を持して」のお目見えとなったのが偶然にもこの年であったことの意味を我ら観客の誰もが噛み締めなければならない

 

昨シーズンから各劇場でよく上演されている印象のある『アマゾンのフローレンシア』は、まさかのMETにおいては今季初上演。そもそも同歌劇場におけるスペイン語作品の上演それ自体が『ゴエスカス』『ラ・ヴィダ・プレべ』に続いて史上3作目、およそ一世紀振りのであるというから、私達は非常に稀有な機会に居合わせたことになる

 

その舞台がアマゾンであることから小道具や衣装の造形や色遣いなども独特で、それらの導きによって未踏の地に没入し、況や荒唐無稽な結末もすんなりと腑に落ちた点を鑑みれば、この作品上で最大の美点はそこにあるのかも知れない

 

それと相対して、毎回それぞれの作品やその背景に縁の深い人物を据えるホストとしてローランド・ヴィリャソンを起用したことはともかく、いずれも合衆国出身でありながらラテン系の血統である主演陣のそうした肩書きをそれと喧伝したのは悪手だった。これが「従来オペラを難解だと敬遠して来た客層に対する訴求」を重視することと同義なら、この業界に守るべき矜持なんてものはないのと同じだ

 

ここ数年で随一のお楽しみといえばドニゼッティ・オペラ音楽祭。今年の主演目だった『ランメルモールのルチア』はドニゼッティ財団とボローニャ市立劇場の共同制作だそうで…一体どちらの主導によって、これが最適解であるとする結論に至ったのかをぜひ知りたいものだ

 

これまでにもエンリーコと彼の眷属を無法者として描きたがる演出に出遭った経験がない訳じゃないけれど、そうするべき動機を完全に活かしきれていた作品は皆無と言ってよく、そもそも動機さえ見出だせないことすらもしばしばあった

 

この作品の主題となる「閨閥婚」とそれに抗おうとする「愛」のどちらも形式こそ違えども正義であるから、(例えば識字率も覚束ないような近世以前の市井を対象としているならともかく、)この日のためにここに集った観客に対して、一方に過渡な肩入れをして勧善懲悪に仕立て上げようとするのは、あまりに高飛車が過ぎる行為だ。そこへ来て『ウェスト・サイド物語』の要素も取り込もうとするものだから、何もかもが上手く行っていない。あっ、個人的に撮影と照明はとてもよかったよ

 

その題名ずばり『バーモンゼイ、1983』と名付けられたオペラは、今なお「英国政治史上最大の物議を醸した選挙」として悪名高い同年の選挙キャンペーンにおける同性愛差別を主題としている。最も有力な候補者の一人と当初認められていた労働党選出候補のピーター・タッチェルは、その性嗜好ゆえに数多の中傷や暴行ならびに脅迫を受け、同じく自由党候補であったサイモン・ヒューズ(2006年にバイセクシャルを暴露されるかたちでC.O.)に敗北を喫してしまう

 

それと作曲家ロバート・リード・アラン自身が自認するように、いわゆるオペラとしては題材からして目先が新しく、その作品自体については無論のこと演出や配信における見せ方に至るまで細心の注意が払われている。「このオペラがLGBTQ+に対する差別を解決する直接的な糸口にはならないだろう」と語る彼が本来の意味で意図するのは、普く人々に問題を提起し、それらについて議論を呼ぶことだという

 

すべての物事はイギリスからはじまるのだ、例えば産業革命然り民族問題然り。例えば、そのロックやパンクやグランジの起こりも、今日における電子的音楽の隆盛さえも

 

スイス東部に位置し、同国で最古の劇場のひとつであるサンクト・ガレン劇場による『リリ・エルベ』。これまでに数々の受賞歴で知られるトバイアス・ピッカー作曲、いわゆる医師であり作家という二足の草鞋で活躍するアリエ・レフ・ストールマン台本。この題名にもなっている世界初の性別適合手術を受けた女性と、その妻の間に生まれ育った稀有な絆に焦点を当てた作品となっている

 

これまでに誰も成し得なかった足跡を残した偉人の伝記であると同時に、本作は紛うことなき「愛の物語」である。自ら伝統的な音楽と革新的なそれの素養を認めるピッカーの音楽性に、この物語の舞台となるベル・エポックを含む20世紀初頭は好相性だったと思う。そうした彼の意図に十二分に寄り添って、その魅力を引き立てる象徴的な演出がより一層リリを支える妻・ゲルダの献身を詳らかなものとしている

 

今回タイトルロールを務めたルチア・ルカス自身も性別適合手術の経験者。前述の作曲家と脚本家が公私を共にするパートナーであることも含め、ほかに類型を見ないほど私生活が作品に作用した好例と言えるのでは

 

 

 

かの国に纏わる国際情勢の悪化する以前と比べて、近年ロシア国内の劇場では自国の作曲家による作品を上演する傾向が顕著になっているような体感を覚えるけれど、実際に統計を取った訳ではないから事実は分かりようがない

 

一方で、来季のイスラエル・オペラのプログラムの中に『スターバト・マーテル』や『レクイエム』が連ねられている現実をどう受け止めたらいいだろう。いずれ平和が為った時これらについての検証も美談になるのだろうか、あのナチス政権下で芸術と必死に向き合ったフルトヴェングラーのように?