今年最もよく観たオペラは、以前の記事でも触れたように『メリー・ウィドウ』だった。その中でも観賞回数が多かったのはMETの2015年版で、その他の同タイトルとの比率は8:2くらいかな。とにかく顕著な時には1日3回、まるで薬を服用するように文字どおりに「摂取」してた。いや、待てよ。もっと多く1日5回なんて日もあったかな、これじゃ完全なオーバードーズだね

 

同オペラは独裁者ヒトラーにとって随一のお気に入りだったことでも知られる。「実は女性という存在を恐れていた彼にとって酸いも甘いも嗅ぎ分ける包容力を持ちながら可愛らしい少女の面影も残すグラヴァリ夫人こそが理想の人だった」というような内容を公式的なライナーノーツや個人のブログで何度となく見掛けて来た。しかし、個人的にはこれには同意致しかねる

 

一般的にオペラというのは総合芸術であるから、その物語が優れていることや旋律の美しさとそれらを体現する歌手陣とオーケストラの技巧が三位一体となった時に、はじめて真価が発揮されると言っても過言じゃない。それらを構成する一要素に過ぎない登場人物の魅力に惹かれるということは、それはあるにはあるだろうけれど、そのオペラを愛する理由としては少々弱すぎやしないかな

 

先達ての妊娠中に7回/日ほど『ドン・ジョヴァンニ』を観ていた身からしたら、あんな「恩知らず」が理想の人だと思われるなんて心外だ。もし死後そう言われたら、それを吹聴した人間に対して騎士団長よろしく復讐を虎視眈々と狙うだろうな。大体にして、あんなに演出によって人物像が様変わりするタイトルロールもそうないから、どの演奏盤かによっても印象がだいぶ違う

 

「じゃあ、そうした異なるドン・ジョヴァンニ像の中で、どれが最も魅力的なの?」って訊かれたら、何度も再演を繰り返されている同作だから、その回答は冗談じゃなく人の数だけあるのかも。もうばれてるよね、それらの代表的なものに「ああでもない、こうでもない」って言いたいだけだって

 

 

 

皆大好き、チェーザレ・シエピ。この晩年期のフルトベングラーによる名盤をこそ最高位にあるそれと崇める人も多いだろう。個人的にも(共演者の配役を除けば)それに異論を唱えようがない。同タイトルロールの魅力をどこに据えるのかは、それこそ演出家や歌手の数だけ一家言ある。ここでは数多の女性に夢を見せてきた老成された魅力とまるで少年のようなある種の残酷な放埒さを上手く共存させていて、その齟齬にさえも説得力を持たせている技巧は流石の一言だ

 

以前勤めていた職場に彼そっくりな人がいて、たまに一緒に飲みに行くと同席者のみならず、その店に居合わせた全員が例外なく心奪われているのを目の当たりにして考えさせられたよね。同作中の"È tutto amore!"の真実味についてを

 

この人物に対する最も簡略なアプローチとしては、やはり筋骨隆々であることに尽きる。その歌声の美しさが担保されているオペラであっても、否あるからこそ、そうした外見に訴え掛ける訴求法こそ男女の別なく観客を屈服させるにはもってこいの遣り方だからだ。前時代までと違って映像化を前提としていることも少なくない昨今では、それが残される今後数百年を視野に入れる必要がある。これまでにマチスモが主流ではないにしろ受け入れられなかった時代などなかったことを思えば、そこを狙い撃つのは当然の顛末とも言える

 

同じ類型としては、よりロマンティックなイルデブランド・ダルカンジェロやより野性味あふれるアーウィン・シュロットがいるけれど、個人的なお気に入りはこれ

 

ある日、いつものように同タイトルを観ている私の隣で「 こ れ だ ! 」と珍しく夫が声を荒らげた。彼にとっての理想のドン・ジョヴァンニとは、このザルツブルグ音楽祭におけるトマス・ハンプソンが提示したそれに集約されるようだ。「同タイトルロールが目指すべきは『メンタリスト』のパトリック・ジェーンだ」という

 

曰く、「なぜ直情的であったり陰鬱的であったりする典型が好まれているのか。いつも飄々としていて掴みどころのない存在だからこそ数多の女性の惹き付け、どんな状況でもレポレッロを引き止め、それと周知された紳士であるドン・オッターヴィオと学のないマゼットの両方に脅威を抱かせ得るのに」と

 

個人的にドン・ジョヴァンニはノブレス・オブリージュに従って死を選んだと思っているので、ともかくもこの演出は真理だと思う

 

以前の記事でも触れたNahuel di Pierroによる「シャンパン・アリア」。彼は同作では珍しくないことにレポレッロとマゼットもレパートリーとしているから、いずれの役柄でも観たことがある。このカスパー・ホルテン演出版では、以前の推しも含めて名だたる歌手がタイトルロールを務めてきていて、その中から独断と偏見で選ぶなら、これしかなかった

 

その茶目っ気のある外貌に反して、彼のアプローチはひたすら優美で甘やかだ。「もし私がこの容姿を備えたバリトン歌手だったら」「同役を務めたら」の予想の対極を見せられていると言い換えてもいい。大方の男女にとって理想とする相手が常に底知れない相手であることを思えば、これほど理に適った立ち回りもないと何日も思案させられるほど。それほどに衝撃的だった

 

別にここに帰結させるために書きはじめたのじゃないのに、あたら結果的にそうなってしまった。それくらいには今の推しに目がなくなっているのかも。いわゆる一般的に見目麗しいとされる類型にありながら、いくらコロナ禍にあるとはいえ「イタリア人ですよね?」と問い詰めたくなるくらいの棒立ち振り。この「底知れなさ」に魅力を感じてしまった上は、これから彼が歌い続ける限りは推すほかはなく、それ以外の選択肢を失ってしまったってことになるのかな。それさえ吝かじゃないって思えるから推し活って恐ろしいな

 

これまでに「奥様お手をどうぞ」と歌って、それ以上の事に及ぶ演出は数観てきた。まさか一切の肉体的な接触を持たずに舞台上を辞する演出が存在して、それを生きながらこの目にしようとは思いも寄らなかったよ

 

 

 

以上、『理想のドン・ジョヴァンニ』でした。けだしドン・ジョヴァンニは移り気に享楽を求めるだけで、私見では根っからの悪党ではないと考えてる。とは言え、あらゆる年齢や階層にある女性達(ドンナ・アンナ/ドンナ・エルヴィーラ/ツェルリーナ)でも惹き付けて止まない魅力に説得力を持たせるのは容易なことじゃないよね

 

そうした意味で「抱かれたいドン・ジョヴァンニ」として選ぶなら、個人的にはChristian Federiciかな。とにかく色気がすごい。とにかく色気がすごい(※ 大事なことなので繰り返しました)。もし一夜限りのお楽しみじゃなくて永遠を望む女性だとしても、「どんな女性であれ、こんな人を繋ぎ止めておける訳がないな!!!!!」という納得を色気で誘引してくる感じがある

 

かたや自分が興行主だったら、そのタイトルロールは絶対にモルトマンにするよね。その歌声は無論のこと容姿と演技性も揃っていて、いわゆる欠陥がないから。何らかの才能が突出している一方で、何らかの不足があるのが人間だとは思うよ。しかしながら、どうも時代はそれを許容しないようで、普く均衡のとれた相手を求めがちな傾向があるって(あくまで肌感覚で)感じる。モルトマンには過不足ない色気もあるし、同じく過不足ない野性味もある。すべてが過不足ない。本田宗一郎が聞いたら墓石から蘇りそうだな…

 

 

 

※ 余談ですが、

今年観た『ドン・ジョヴァンニ』の中で、最も感銘を受けたのはこれ。今までにも視覚的ないし聴覚的に斬新な同作に数多く出遭ってきた。この作品にもう新しい驚きを見付けることは難しいと思ってた。その思い上がり甚だしい心驕を諌めてくれたのも当然だけれど同作だった

 

何が素晴らしいって、この演出では巷の小説よろしく未来からはじまる。ここでの物語上の進行を整理するとしたら「C→A→B→D」となる。つまりは時系列を逆手に取って作品を改変しているということだけれど、そんなことを思い付くなんて、その可能性すら一考だにしなかった

 

とはいえ、この作品をはじめて観た人間の中で同題名を言い当てられる確信はいかばかりだろう。これは『レポレッロ』だ、ここではドン・ジョヴァンニもドンナ・アンナも空気みたいになっている

 

 

 

「これが今年の最後の記事なんて」って、私自身が一番思ってる。まあ、どう足掻いても人間なるようにしかならないよね。今年もゆるくお世話になりました。来年もゆるくお願いします