先達ての記事で『蝶々夫人』の結末について否定したけれど、それはあの場合の(要するに当時はほぼ属国扱いの日本における現地妻に甘んじる結果となった禄に学もない蝶々さんに対して、自らは百余年前に独立国家となったアメリカを祖国に持つピンカートンにとってはトロフィワイフである自負を誇る)ケイトの倫理観を疑っているからだ。はたして親子を名乗る上で、その血縁などは無論のこと何の冥利にも障壁にもならない。もし私がケイトなら、現地妻と夫の子供を愛せるだろうか。私が蝶々さんでも、自らの子を揺蕩いなく手放せるだろうか

 

昔は「その人生を賭して愛した相手に裏切られた蝶々さん可哀相🥺」と思っていた。この悲劇が悲劇たる由縁はそこにはないのだということがさまざまな経験を経た今なら理解できる。実際の「洋妾」の多くやタイトルロールのモデルとされる楠本滝にグラバー・ツルや竹田のおカネはいずれも自ら命を絶ってはいないし、第一にして誰かに愛された悦びを失ったからといって、それは子供を手放す理由にはならない。今にして観るだに「蝶々さんは、こんな屑をよく刺し違えなかったな」と思うのが関の山である

 

余談ではあるのだが、先日までの記事に書いたとおりにオペラの登場人物はどいつもこいつも揃いも揃って屑揃いではあるので、その中ではピンカートンはまだマシな方と言わざるを得ない

 

 

我が国を舞台としているだけあって、我々日本人にとって最も馴染み深いオペラのひとつであることは疑いようがないだろう。実際に「さくらさくら」や「お江戸日本橋」など、幼い頃からよく親しんで来た旋律の存在があるとないとでは、そのとっつきやすさは格段に違う。はずだ。しかしながら、その中で取り沙汰されるのは第二幕のアリアばかりというのは、いささか残念極まるというもの。この多幸感が好きだよ、これが永遠に続いてくれればな…

 

実は、最初に『蝶々夫人』に触れたのは本編じゃなく『ニューオリンズの美女』という映画における劇中劇だった。今日では稀代のテノールの生涯を描いた『歌劇王カルーソ』でよく知られるマリオ・ランツァを知ったのもこの作品だ。彼は俳優として映画へ出演する傍らで音楽の研鑽を積んでテノール歌手としても活躍を果たした。もし早逝しなければ、現代オペラに大きな足跡を残す一人となっていたであろうだけに天の采配とやらが悔やまれる

 

前述のとおりに今作中で最も有名であろうアリアは、もしかしたらオペラ全作品を通じた女声が歌うそれの中でも随一と言えるかもしれない。何せ「世界で6番目に上演回数の多いオペラ」との触れ込みだ。この主演2人の歌唱はともかく、彼らの演技とそのアプローチは咀嚼しづらいこと極まる。『ロミオとジュリエット』然り、こうした悲恋話にとって年齢の設定は大事なんだ。それを斟酌できない人間に、この物語の真髄など分かり得ようはずがない

 

「『蝶々夫人』の演出には難があるものが多い」という印象を受けるのは、私が日本人であることに拠るのだろう。この劇的な音楽とクリスティーネ・オポライスの可憐で嫋やかな蝶々夫人の龍虎を揃えているにも関わらずに、まるで毛虫とその劇伴のように扱うことが本当に理解に苦しむよ。はじめて観賞したプロダクションでは、蝶々さんが切腹して流された血が白い敷布に日の丸を描いた。この作品のポテンシャルをあれほど生かせた類型を知らない

 

これまで同じ筋書きを異なる演出で何十回と観続けて来たものの、まるで蝶々さんがピンカートンに惹かれる由縁を紐解けずにいた。「日本人特有の盲信性」という説明では片付け切れない部分について、これを観てはじめて腑に落ちた気がする。彼は「海軍士官としての野心」「若人らしい下心」「異文化に戸惑いながらも蝶々さんを理解せんとする恋心」「複雑に拮抗し合うそれらのどれより強い合衆国人たる愛国心」を等身大の人間として表現してる

 

 

この作品中で最も好きなのは「桜の枝を揺さぶって」の二重唱なのだけれど、それについては語りたいことが多すぎるので、また別の機会に

 

先にも貼付したROHの『蝶々夫人』。この世界は大変広いと思わしめんことに、「プッチーニ異国三部作の別の作品と間違えてます?」みたいな演出が絶えざるものを、これは考証がしっかりしている。…と思ったら、ロンドン大学博士の鈴木里奈氏をはじめ名だたるお歴々がコンサルタントとして参加しているそう。なるほど、どうりで!

 

 

冒頭の問題提起に対する最適解はともかくとして、毎日何かしらの疑問や謝意を抱きながら子育てをしている身としては、もし誰かがこの母親業を代わりたいと名乗りを挙げてくれたら、その条件さえ揃えば何の躊躇いもなくこの座を譲る。それも歓んで譲る。むしろ譲りた過ぎる

 

我が子が通うピアノ帳室では、どの母子も連弾を嗜む中で、我が子だけが恥を掻いてる。この年齢にして、まだ夜間にはオムツを履いてる。自分のことなら「大きなお世話」で一蹴することにも控えめに感じよく笑顔で対応しなくちゃいけないのも地味ながら確実にHPを削りに来ている。ドラクエなら、常に「どく」状態。残念なことにキアリーは唱えられないし、あたらどくけし草も持ってない

 

「もし私が蝶々さんなら」、どんなに惨めであろうともピンカートン夫妻の帰国に際して小間使いとしての帯同を望む。そして、その身分を隠して愛息が高等な教育を受けながら成長する側で陰になり日向になり見守り続けるんだ。いつか出自を知った彼から『あさきゆめみし』の明石の上のように言われるかも知れない、「他人のような気がしないね」と。あるいは、いつか堪え切れず慈愛の籠もった目で見つめてしまうだろう、はじめて会った日に彼の娘にそうしたスティーヴン・タイラーのように

 

どんなに夢想に耽ったところで、それらはあたら現実にはならない。実際には、今日は制服とスモッグどっちだっけと迷った挙げ句に付け忘れた名札、しぶしぶ交換したママ友との未読無視が溜まりに溜まったLINE、まったく手付かずのままのおかずが入った捨てられるためだけのお弁当が私を待っている。前を向かなくては