ある特殊な場合を除いては「お酒」というものは連綿と続く詩の一要素を飾るのみで、滅多に主題としての市民権を得る機会はないような気がする。ましてや、それだけに特化した詩集なんて、この広い海の中にあって、ほんのわずかだ。

そうしたわずかな例の多くは古のムスリム達によって産み出されていて、その代表格としてよく知られているのがこの『アラブ飲酒詩選』である。

 

******************************


誰でもお酒を嗜む人なら、必ずや何か手痛い失敗があるはずだ。例えば、何かをどこかに忘れて来てしまったり、どこか記憶が抜け落ちてしまっていたりってところから始まって、まったく知らない相手の隣で目を覚ましたりっていうような痛恨の一撃としか言いようのないものまで、その枚挙には暇がない。

かくいう私自身にもいくつか経験はあるけれど、しかしながら、その失敗に対する後悔までを一区切りって考えるのが存外に正しいのかも。散々「飲酒詩」を読ませて酔い痴れさせておきながら、唐突に「禁欲詩」で「俺もう絶対に酒とか飲まねえから!」っておもむろに誓う作者の豹変振りをして、何となくそう思った。

ほかに有名な飲酒詩といえば、同じくアッバース朝の時代に書かれたオマル・ハイヤームの『ルバイヤート』が挙げられる。私事で大変に恐縮ではあるのだが、私は愛読書を訊ねられたら必ずこの名前を出すほどに、かの作品とそこに繰り広げられる世界観の虜である。


だのに、そんな価値観さえも吹き飛ばすこの詩集と来たら、どうだろう。今でも無論のこと愛読書に対する敬愛は変わらないけれど、こちらの方がツッコミどころが多くて読んでいて楽しかったかも。

 

******************************


そのツッコミどころの理由としては、偏に作者自身と言うしかなさそうだ。

 

というのも、このアブー・ヌワースなる人物は幼少の頃からアラビア語とペルシャ語に精通し、その宗教や哲学の知識は他の追随を許さなかったほどだと言うものの、その割に何度も投獄されている。……まあ、ある意味では「他の追随を許」していないとは言えるけれども。

彼の活躍した当時には世界貿易の中心地だったと言うバグダードでカリフの寵愛を得るものの、そんな素行の悪さが祟って次第に敬遠されてしまう

 

なんとか貧窮を打開しようとエジプトへ逃れ、そこで気前がいいと評判の総督から大金を得たはいいが、それもすぐに使い果たして次を要求し、見事に愛想を尽かされている。しかも、それに対して後ろ脚で砂を掛けるがごとく、ご丁寧に中傷詩まで作ってもいる。

 

これには無頼漢で知られるドストエフスキーも真っ青になること請け合いである。

 

******************************


私が最も驚いたことには、ここに収められている恋愛詩のほとんどはジャナーンという女性に捧げられていると伝えられながらも、それがことごとく片想いに終始していたということ。

 

それだけならまだしも、その彼女から「あの犬畜生」呼ばわりされていたこと。


巷には「拒絶されるほどに男は燃え上がる生き物」などと言われるらしいけれど、その拒絶にも程度があるだろう…。そこまで言われて、なお慕い続けるとは、この作者、結構なドMである

ちなみに、どんなキッカケがあったのかはともかくとして、ヌワースが彼女への恋心を諦めるのは三十路を過ぎてから

 

なお、そのせいでバグダードへ上京したはいいが、以後は男性愛に目覚めており、全然ジャナーンのことは吹っ切れてなどいない模様


これらはすべて巻末の解説として翻訳者によって書かれているまぎれもない真実で、

そりゃあ早々に「俗物もよいところ(原文ママ)」と切り捨てたくもなるだろう。

 

******************************


しかしながら、そんな俗物だからこそ、ここまでツッコミどころがありながら、あくまで純粋な知的探究心の許にページを繰らせたのも、一方で事実かも知れない。

これも解説を読んで知ったことだけれど、前段のウマイヤ朝において育んでいた蕾を咲かせ、既に近代的な生活を謳歌していた人々にとって、かつてのような砂漠での生活は遠い前世の記憶でしかなかった。件の巻末には「それでも前時代から好まれた古詩の息吹きを汲み取ろうとして、彼はアサド族と砂漠の生活を共にした」といった記述がある。


その後に当時の文化に見合った作風の詩が求められるようになった時代の最大の功労者として謳われているが、そこにはいわゆる前時代的とされた砂漠における経験も大いに役立っていることだろう。

 

******************************


また、彼は同時代の文人達からは、すべからく愛され慕われていた様子も窺い知れる。そうした何処か憎めない人柄が多くの権力者から愛でられ、今日でもなおたくさんの人々によって読み親しまれる由縁なのかも知れない。


アブー・ヌワースは古きをよく識る新風の旗手。彼の功績を砂漠に埋もれさせてはならない。