溟濛散歩 -6ページ目

溟濛散歩

どうにもたちゆかない日々にめぐらす心情のトロ、兼カウントダウン。

杞憂、というのが人生のテーマなんじゃないかというほど自分の身に降り掛かっている感じがあるが、杞憂だと理解している時点でそれは杞憂と少し違う気がするが、自覚的であろうが無かろうが杞憂は杞憂だと思うようにしている。こういう思考のループは自分の中によくあって、「自分のことを変わってると自称するひとは不思議ちゃんではない」みたいな理屈が真実めいたものとして世間でまかり通っている昨今だが、自分が変であることに自覚的な変人だって沢山いる事を誰かが認めてあげない限り、彼らは救われない気がする。というか私が救われない。
自分が変わっていることに自覚的でなおかつ、それを自称する事にためらいがある人はそれだけで生きてて辛いだろうな。なぜならそれを矯正できない情けなさとか、だらしなさを露呈していると、世間では見なされてしまうから。無自覚なバカに生まれればどれだけ楽かって話しだ。
だがしかし、自覚的であるだけマシなんだという、プライドがあるから生きて行けるし、それが希望だと思っていけたらと切に思う。
どいつもこいつもくずばっかりなのに、どうしてみんな誰かを好きになれるんだ。好きになってるつもりなんじゃないのか。本当に好きだって言うなら、その場でなかよく心中しろよ。それは無理な話しだとしても、誠意を見せろよ。性欲以外の、愛情の本質を見せてみろよ。無いんだろう、ほんとうはそんなもん。愛情っていいわけだもんね。それがきたないって意見もだいぶ古くさいしステレオタイプだから、もう私なんか誰にも必要とされてないし、いまさら疑問におもって、その疑問に苦しんだとて、そんなの無意味だもんね。
これでやっと半分だね。一気に折り返すよ。
ナポレオン風に言えば、私の辞書に「好き」って言葉は無いのだと気づいた。強いて自分の中にそれに近い言葉があるとしたら「許せる」だ。基本的に何もかも嫌いなんだ。何を見ても虫酸が走るから、できることなら一生寝ていたい。それでも私が許せるものを増やしていかないと、生きていけないほどの寂しさがあるという、受け入れがたい現実。一生ねてすごすのは理想であって、不可能だし。しかし情熱には限度がある。