溟濛散歩

溟濛散歩

どうにもたちゆかない日々にめぐらす心情のトロ、兼カウントダウン。

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やたらと口をついて出るのは「死ぬしかない」という自罰的な言葉で、その度に「なんで私が死ななければならないんだよ」と思わないでもない。死ぬべきだと思う一方で、私なんかよりよっぽど生きる価値が無いと思われる連中を思う時に、本当に自分を情けなく思う。やっぱり私なんか死ぬべきだ。
自分でも正当性が無いと分かっている怒りや不愉快さは、どこにぶつけられるかというと、全部自分に帰ってくるのですね。そうなると、もう動けなくなるほど精神的に辛くて、とてもじゃないけど社会生活をおくれない。
そうなるのをどう回避すればいいか考える。案としては、

1怒りそのものを感じなくなるべく、鈍感になる。
2怒りを無理矢理他人にぶつけてすっきりする。
3納得できる自分になるよう精進する。

1や2はもう論外。そういうつまらない人間は死ねばいいのにって思う。かといって3をどうどうと宣言する人間も気持ち悪い。
でも結局3だよな、と考える。そしてすぐに無理だよなって諦める。
「覚めている」というのがどういう状態なのか、ここ五年くらいはっきりとはわからなくなっていて、その事がずっと悩みだった。今もそれでイライラしている。
とにかく日中はいつも眠いのに夜になると眠れなくなるから困る。
不眠と過眠は紙一重だ。動かなければ眠れない、眠らなければ動けないという不文律が、生きる上で面倒で仕方が無い。 
だから、眠れないイライラはいつも、深夜のインターネットにぶつけている。パソコンのディスプレーは強い光を放つから、睡眠を妨害するなどと言われているが、眠れないのだからと割り切っているから、もう関係ない。一晩中、興味のある有名人のブログをずっとさかのぼって読んだり、ラジオをダウンロードして聞いたりしている。深夜のヒマつぶしをこう箇条書きしてみるとなんとも気楽に思えるが、その実とても苦しい。眠れないから苦しいのではなく、このままでは明日も一日中眠いのだろうと考えるから苦しい。でも状況と裏腹にダウンロードしたラジオが面白くて笑ってしまう。
そんな事をしているとあっというまに何時間も過ぎていて、気づけば時計は午前四時を指しているから死にたくなる。いい加減眠らなければと焦るが、今更眠ったところで、大した時間眠れるわけもないから、あきらめてしらけてしまう。しかし一方では焦っている自分もいて、そいつはあせってない冷めた客観的な自分が恐ろしくて「あああっ!私はダメ人間だぁ!」などと叫びだしてしまう。そうやってわざと錯乱したように頭を振れば、途端に脳の回路のどこかが切れたように全てがどうでもよくなって、ようやく布団に倒れ込む。しかしもうそれでは遅すぎるのだ。
次の日の朝はもちろん起きられない。それに全てがどうでもよくなっているから、学校はサボってしまう。午後に目が覚めるというのは、人間としてどうなのだろう。学生としては失格だが、一個の生物としては大した事ではない。単に夜行性なのだ、という烙印を押されるだけだ。もしも虫だったら新しい虫として図鑑に載るかもしれない。ただ人間だからダメなのだ。どうして人間に生まれてしまったのだろう。こんな根本的な悩みを打ち明けるならば、即座に中二病だと笑われてしまうから困る。十四歳症候群だと嗤われてしまうから困る。「嗤う」なんて漢字を使ったら、またその攻撃が助長されるから困る。どうればいいのだろう。
もう袋小路である。先に進もうとも行き止まりだから、無理に焦ってはいけないのだろう。いったん引き返して、戦略を練り直す必要がある。それなら一体どこまで戻ればいいのだろう。そして戻るのに必要な体力はどれくらい眠れば回復するのだろう
眠ることは、「世界」を閉じる事とイコールである。眠る事で束の間、浮き世を忘れさせてくれる。しかし眠りによる安息は「私」を閉じてはくれない。私が、いまのままの「私」である限りいくら「世界」を閉じたとて苦しみは続くのだ。いっその事、「死」によって「私」をも無理矢理閉じてしまうか、今の「私」を受け入れるしか、苦しみから抜け出す方法はないのだろう。いずれにせよ体力のいる作業で簡単じゃない。