男とか女とか言うけれどもそれはオスとメスのことであって、それ自体は差別ではなく区別である。

ボーイスカウトと言う表現が不適切ならば、男も女も一律にせよと言うことに他ならない。

その指摘は人間の不平等に関する提言でもあるが、別の観点から見ると、それはすべてのものを一律にせよと言うことに他ならないと感じる。

そういう考え方に於いては人はまるでコンピューターのチップであるという事になる。

人間をコンピューターのチップのように扱うのであれば、お釈迦様が禅を組んで瞑想してしまったときのように、すべてのものは意識を消してしまい、ただ自然に対して反応するだけ植物と同じような生き方をせなければならない。

そう思う。

 

しかしながら、たとえ日本人の精神意識がそうなったとしても、周囲の社会主義国は全く反対の思想を持って来る。

自分以外をコンピューターのチップのように操作して、自分はそういう人の社会を独裁しようとする意識は未来永劫消え去る事はないと感じる。

歴史は繰り返すと言うけれども、今その過渡期に入っているような気がする。

どちらの思想に追従するかは、人それぞれだが、人類の過去の歴史をひもといて考えてみると、やはり人は植物には戻れない。

個人の主張があってこそ、人は人として歴史を紡いでいく存在なのではなかろうか。

昨今の平等と言う考え方は、どこかそういった大きな支配力によって操作された考え方の様な気がする。

そして最近言われている自由な社会と言うのは、その支配者層の意思によって人々を先導するために使われる言葉ではなかろう

か。

自由と言う言葉を使って、自分の意思の反対勢力に対してそれを黙らせようとする意思がひっそりと見え隠れしている。

現在のロシア皇帝プーチンは、国民のために、と言って、国民を戦争に追いやりたくさんの死者を出している。

そしてそれに反抗する人民は、国の意思に反する勢力だとして捕まえ黙らせてしまう。

これは他の社会主義国も同様の手口である。

まさに皇帝とよんでしかるべきではなかろうか。

 

逆に、今のアメリカ社会は、バイデン大統領が 従来からの様々なポピュリズムに反応して、人民に迎合している部分が多く見られるが、そこに関しては非常にデリケートな部分と感じる。

トランプ大統領になったら密かにトランプ帝国を目指しているような印象すら考えられる。

もしそうなったら、アメリカも共産主義の国家と同様に帝国主義に走っていくのではないだろうか。

ただし 一度、戦争が始まると、現在のウクライナのように国民が国を守るためには、個人を捨て戦争に参加しなければ存在し得ない。

そういう道を歩むしかないと考えておくべき、が結論であろう。

 

そうならない道は かつてそこに存在していた国民が国を捨て、国を消滅させるしか方法は無い。

それはそこにかつて居た人種たちがそこに居なくなる事を意味する。

そして国が消滅したら、その国は、戦争仕掛けた相手国の国、人種たちのものとなり、本来居た人たちは種族としての集合体を失うことになる。

まさに、歴史が示す国を持たないユダヤ民族の道をたどることだろう。

 

結果として 人は人である限り、戦いから逃れることはできない。

人種間の争いだ。

それが現実であり、事実であり、真実だと感じるのである。

かくのごとく

平等とか平和とか、そういうものは、絵に描いた餅でしかないのかもしれない。

人は、そういう人的操作と欺瞞によって、日々の生活を生きていることに他ならない。

そんな印象が強くなっている。

仮にそうであるならば、日常でも自分と他人との間には、大きな隔たりを設けるしかなくなってしまう。

日本のように、鳥小屋のような 人と人とが、激しく近接した環境で、生きていくならば、かつて昔の日本に存在していた小さな村社会を築かなければならなかったのであろうな。

本来ならば、自分の家族、あるいは集合体、それと別の集合体は叫んでも声が届かない程度の離れた距離に生きるのが生きやすいかもしれない。

大草原の小さな家、くらいがちょうど良いのかもしれない。

ところが、それを求めない昨今の若者たちは、世の中の奇妙な言葉にに洗脳されてしまっているのではないか。

 

本当に不便とは何か?

本当に不快な暮らし方とは何か?

本当の平等と言うものはどこに存在するか?

 

今の日本における若者たちは そういう根本的な生き方を改めて考えるべきではなかろうか。

ただ雑学を得ること、学歴をあげることに成長期を捧げて、大人になって得るものは、疲弊して滅びゆく日本の未来ではあまりに寂しい。

 

そして、地球の裏側で多くの人が死んでいても、日本人はのうのうと生活しているではないか。

これを人類皆平等と言えるのかどうか。

それに対する答えが知りたい。

せめてそこを研究できる若者が存在してほしい。

 

しかし、どこまで行っても不良品であるべく人間から変われない。

それは残念ながら已むを得ない。