自分の心の中を見つめると、

対面上はいい人か悪い人かわからないけれどもやはり無意識のうちにまだまだいい人でいようとしている。

言葉上や自分の気持ちだけではいい人でいようとは思っていないのに。

でもそれは自分がそのようになろうと思っているそこまでの話だ。

 

実際には無意識のうちにいい人でいたいと行動している自分が見える。

決して犯罪を起こすような悪人になろうと言う意味ではない。

無理して良い人間であろうと努力すると意識の中で甚だしい無理ができあがる。

それが続くと無理がたたって自分自身を攻撃してあくせくし焦ってしまうのだ。

だから自分の願望、自分の気持ちはもういい人でなくて良いと願っている。

 

ところが実際に身に付いた生活の癖はそう簡単には変わらない。

相変わらず周囲の人間は 会う人たち 家族も含めて全員に良い人間であろうと頑張ってる自分がちらほら見えているのだ。

 

毎日とても疲れる。

 

毎日焦って気持ちの中がヒリヒリする。

 

今でもまだ肩の力が抜けていない自分がいる。

意識を変えようと言って頑張ったら余計にそれも無理がたたる。

 

以前から一旦停止をして深呼吸をすることを言葉にしてはいるものの 実際に人と出会うと話し言葉がとても速くなり激しく焦っていることがわかる。

深呼吸も一旦停止もなかなかできていない。

まだまだ今まで取り付かれた意識から解放されていない。

それは

本当は人に対する焦りでは無いのではないか?

 

自分が思ったように動けていないからそれで焦っているのではないか?

自分の理想どおりにものごとが進んでいないから。

 

要するにわがままだと言うことになるんだけれども それとはまた別に今までのようにスムーズにうごけてなかったり見えていなかったり勘違いしたりしているところがイライラするところでは無いのか?

 

だから人が自分が思ったように動いていないと自分の欲求不満がイライラを招いているのではないか?

 

結局自分の思うように事が進まないのでイライラと焦りが出ているのではないだろうか?

 

それって自分の過信では無いのか?

 

自分に自信があるからそうなっているんじゃないのか?

 

自分が思った通りにできると思い込んでてそれができない事からそうなっているのだろうか?

 

日常の多くの出来事は理想どおりにはできなくて当然なんだ、と思わないといけないのにそれが心の奥底ではできると思っているんじゃないのか?

 

自分の考えや行動はすべて正しい?

 

いやいや全く逆で、自分はそこまで正しくない。

 

自分が当たり前だと思っていることをもう一回見直したほうがいいんじゃないのか?

 

自分の常識をもう一度疑う。

と言う事は今まで「だろう運転」のように行動してたその「だろう運転」自体がもう疑わしくなっている。

車の運転もだんだんと合わなくなってきているように日常の行動や意識や考え方。

そもそも正確に行動できるということも時間をかけなければできなくなっているのじゃないか?

 

時間をかけると自分の頭では思いたいと努力はしていても本当にそのように心底思えていないから行動にうつせていないのではないか?

 

最近特に靴紐を結んでいる人を見るとイライラする。

 

そんな悠長なことをしてどうすると感じてる自分がいる。

 

でも、それこそ自分の目線だけの世界で物事を考えているのだろう。

 

ならば、自分は逆に靴ひも結べる位になろう。

 

もっとゆとりを持たなければいけない。

 

気持ちだけでなく、意識そのものや行動も。

 

そうすれば見える世界も変わってくるかもしれないな。