眠りは人の快楽の一つだと思えてきている。
そうであるなら大往生はさぞかし快楽の最たるものを掴んだと言えるのではないか。
黒澤明監督の作品に「夢」というのがありその短編集のほぼラストの作品に長寿の村の大往生を描いたものがある。
その葬式の模様である。
村の人々が大往生を祝うというものではなかったかと記憶している。
村人の殆どが100歳以上の寿命を全うする。
私が今57歳で年寄り株を蒸しても100歳まで生きるならまだあと43年間も生きながらえないといけない。
なんとも気の長い話、いや なんとも大変勇気のいる行為ではないか。
眠りに着くまでづっと起き続けるのが苦痛だと仮定するならば大変な挑戦である。
頭がさがる。
睡眠の快楽に誘われる時の恍惚のひと時がある。
また、睡眠薬という代物も存在している。
逆に起床剤というものははたしてあるものなのか?
眠れなくなる薬。
悩みがあると眠れなくなるが、それは眠りではなくそれ以前に意識が昂る興奮作用による。
人の頭のなかの思考回路を堂々巡りさせてバグを発生させているのであろうと予測する。
バグを外した途端に睡魔に襲われ熟睡できるが、そこまで行き着く前に睡眠薬で眠ろうとする。
それはまさに睡眠にそれほどまでの快楽のある証拠ではないかとも思う。
私も57年間の生存活動の中で幾度となく想像したことがあるのが、自分の寿命の予測である。
自分は何歳まで生きているのだろう、と。
子供の時は二十歳が大きな大人に見えた。
二十歳頃になると自分の寿命は30歳くらいまでだろう、そこまで生きれれば偉いと思った。
30歳になると寿命の事はあまり浮かべられなくて子供の成長を楽しんだ。
当時は子供との生活に必死で取り組んでいたので楽しんだ意識はないが今頃になって楽しさが湧いてくる。
四十歳を過ぎると疲れを感じ出して生活に対して逃避する様になって来たように思う。
それは今でも続いている。
50歳を超えてからは心と身体が意識とズレてきた。
「自分の思い」とその先の「生活」が一致させられないのである。
本来そうである筈、今まではそうだった出来事が過去に起きた出来事と同じように起こらないのだ。
過去と未来の在り方が変化している。
過去の常識と思っていた事、今まではこれができたと思えることができない、と言えば早い。
四十歳代に必死でやってきたことがもう通用しない。
あと3年ほどで還暦になるが第二の人生とはよく言ったもので自分の存在の在り方が変化する。
世の中の為に生きている、と思ってやってきたことが世の中のお荷物になる。
いまほぼそうなりつつある。
いくら頑張ってもその行為は邪魔なものとして社会に影響を与えてしまう。
それが老人化である。
老人はその立場を感じつつ生きていかねばならない。
耐え方の中身が社会の意義の中での活動ではない。
社会の出来事の邪魔になっている自分の存在を白い目で見る若者達がいる。
その若者達からの視線に耐えるのである。
話は元に戻って
睡眠が快楽というのはそういった意識の変化にも対応している。
すでに必要とされなくなった自分の生存に耐える為に睡眠が必要だ。
老人 は寝てれば良い。
しかし、眠りも生存活動ならば飯を食い、居場所を持つことが必要とされる。
それこそも邪魔になる。
ただの睡眠である。
起きなくても良い様に老人に対しての在り方を考えるならば、黒澤明の「夢」の様な村を作るのがよかろう。
大往生の在り方をしっかりと作れば良い睡眠を迎えられる。
そして眠りが永遠のものとなり快楽も永遠となる。
もう起こす必要いもない快楽としての睡眠だ。
でも100歳まで生きなくても良いようにも思えるのだがどうなのだろうか。
還暦を過ぎるとそろそろ快楽を得られても良いのではないか?
などど思ている。