神仏分離令と廃仏毀釈 ~”明治維新150年”の節目に考えておくべきこと~ | 知は力!痴は活力?

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 以前の拙ブログ記事にて、今年は明治維新150年の節目に当たる年であり、これまで危惧されてきた”歴史修正主義”の動きが更に顕在化してくる恐れについて記事にしました。

(詳細)
2018年1 月4日付投稿 ⬇ ⬇ 

 具体的には、アベ政権・日本会議一味の提起する『薩長史観(天皇制史観)』ともいうべき歴史観に立ち、近代日本史の”陽”の面のみ強調するような立場を取るものといえます。
 彼らの歴史認識に関する言動をとってみても、自分たちの歴史認識にとって都合の悪い事象は意図的に取捨選択され、甚だしい場合隠蔽されてしまうことも十分起こりうることであり、意図的な取捨選択によって史実の歪曲や、あるいはその歴史事象に対して、恣意的な評価を与えてしまうことにもなるわけです。

 特に、明治維新以降の近代日本史においては、『天皇制』『差別』『戦争』この大きく3点を取りまく諸課題と、その歴史認識について、彼ら歴史修正主義勢力の動きは看過できないものがあります。
 そこで、一面的・恣意的な歴史認識へのカウンターという意味合いから、あまりクローズアップされず、一般的といえない面について、個人的に興味を持っている主題に沿って何点か述べてみようと思います。
 (筆者の性質としてご存知?の通り、筆ズボラが甚だしい為、かなり散発的な投稿となりますので悪しからずご了承下さい)

 ということで前置きが長くなりましたが、今回は『神仏分離・廃仏毀釈』についてです。これを最初に持って来たのは、明治維新直後というか、元号が慶應から明治に変わるか変わらないかの時点で既に動きが出てきていたからです。

 1868年(慶應4/明治元)3月に朝廷(新政府)は『神仏分離令』の布告を行います。まだ戊辰戦争の真っ只中であり、いわゆる”官軍”が江戸に向かって進軍している最中のことです。
 これを受けて、各地で具体的な動きが起こります。最初に廃仏毀釈が実行されたのは、京都の近隣に位置する、近江坂本(滋賀県大津市)の日吉山王社(現 日吉大社)においてです。




 天台宗の総本山である、比叡山延暦寺の鎮守社であった日吉山王社は、当時の有力寺社の例に漏れず、法体の”社僧”と、神職が混在していました。
 身分的には、神職よりも社僧の方が格上とされていたようですが、前記の『神仏分離令』が出された翌月の4月に、神職が境内の諸社諸堂にあった仏像や法具類を破棄、焼却するという実力行使に出たのです。
 これを皮切りに、全国各地に波及拡大して行き、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れることになります。
 しかしなぜ最初が日吉山王社だったのか。



 日吉山王社の当時の神職が、新政府(朝廷)の中でも尊皇攘夷思想、とりわけ思想面では国学(平田国学・水戸学)の影響を強く受けたグループと近かった、とされていたようです。
 これ以降の『廃仏毀釈』の全国的展開も、新政府内のそういった思想指導グループの主導により、進められていきます。

 (次回以降に続きます。)

【参考資料】