お寺さんかと間違えるほど、重厚な作りの校門ですね。
この博物館、学区統廃合により閉校した旧開智小学校の敷地と校舎を、そのまま利用しています。
この開智小を含めて、京都市は日本で最初の小学校を明治2年(1869)に市内で64校開校しています。これらの小学校は、”番組小学校”と呼ばれています。
ここで『番組』という語句がキーワードとなります。もともと近世の京都には、住民の自治組織である『町組』というものがあって、その起源は江戸時代よりさらにさかのぼって、応仁の乱以後、15世紀終わり~16世紀初めの戦国期に始まるといわれています。
打ち続く戦乱により、焦土と化した京都の町並みと、途絶していた祇園祭を復興させた原動力となったのは、京都の『町衆』であり、彼らの自治精神でした。それは織豊政権期から江戸時代にかけて、『町組』として、ある程度は住民自治の権限を認められて存続しました。それが明治維新直後に、ほぼ全ての番組ごとに、わずか一年足らずの間に小学校を開設させる背景となったのでした。
校舎の玄関部分も和風建築の、由緒ある造りになっており、同じく統廃合された旧成徳小学校から移築されたものです。
で、これより先の室内は撮影禁止のため、博物館のパンフレットから。
まず展示室で目を引いたのが、学校文化財として保管されてきた美術品です。上のパンフレット左側にあるように、上村松園や北大路魯山人といった、第一線の画家や陶芸家の方が、母校に作品を寄贈したものが展示されています。
また上の展示品リストにも『町組会所兼小学校』とあるように、学校としての機能だけでなく、現代でいうと小学校兼公民館兼消防団詰所兼交番といった、自治組織のための全般的な機能を備えた施設だったようです。
番組小学校がわずか数ヶ月の内に、京都市内全域に次々と開設された背景には、当時の府知事(第二代) 槙村正直の教育施策方針もありましたが、ごく短期間で実現したのは、各地区に「番組小学校会社」が設立され、運営面でも財政面でも地域住民の手によって作り上げられたというのが実態でした。
実際に、当初は「竈(かまど)金」という名で各住民からの拠出金により、小学校が運営されていたようです。
(次回に続きます……)