20年区切りの人生 ⑶ | 老眼で見た海外と日本

老眼で見た海外と日本

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3冊の社史-2

私が入社した1964年、会社はすでに創業57年を迎えていた。

世の中は東京オリンピック日本一色に染まっていた時期である。日本

この、東京オリンピックを目指して国内は高速道路、新幹線、競技施設や受け入れ施設などが急ピッチで整備された。

これは昭和30年から31年頃の所謂「神武景気」そして33年後半から36年にかけての「岩戸景気」などと呼ばれ、まさに国土建設を主体にした高度成長時代を築く基となっていた。

 

 

 

この時代を大阪で過ごしていた私は営業で、また工場で、仕事を通して日本の国の飛躍的な成長を実感した。ほっこり

勿論、個人消費も大きな伸びを見せ、インフレ下にはあるものの、賃上げも30%超を記録するなど、異次元の生活を体験した時代である。

 

1987年、創業80周年を迎え発刊された80年史には

昭和32年から42年の時代を躍進の時代[高度成長の波に乗って]として纏められている。口笛 口笛 口笛

 

しかし、何事も永久に続くことはない。

あまりの急成長に、高度成長の行きすぎ、消費者物価の上昇に対する国民の不満の声、などもあり、経済成長政策を推進した池田首相が病に倒れたのち、交代した佐藤首相が沈静化政策をとることになり日本経済は急降下。

 

 

 

山陽特殊鋼の倒産、山一證券倒産回避のための無期限無担保融資の実施、などがあり所謂「40年不況」となった。ショボーン

会社もこの影響を避けることは出来ず、「指名休暇」「一斉休暇」等を実施してこの場を凌いできた。

 

会社と私の年表を比較していると何と!!

創業80周年を迎えた1987年、私は43歳を迎えていた。

そう言えばこの会社の創業者の年齢が当時43才であったことと重なってくる。

この頃、私にも20年区切りの人生の変換点が現れる。ニヤリ