長らく更新していませんでした。

 

最近大河ドラマを結構真剣に見ていたのですが、戦国時代や鎌倉時代の時代考証を経て描かれたドラマの背景から、ご先祖の伝説が残る平安から鎌倉にかけての時代のイメージが少し膨らんできました。

 

 

 切山伝説に出てくる伊藤清左衛門さんは熊野修験者、いわゆる山伏だったということですが、当時伊予と阿波の境界付近の山中では四国第一の熊野新宮大権現や仙龍寺という修行場が身近にあるため、山伏はけっこう多くいた存在たったみたいです。

 

 

また、山伏に関してWIKIに興味ぶかい説明がありました。

 

 

「諸方の交通に明るく、「山臥の道」(『吾妻鏡』)といった抜け道もよく心得ていた。このため、山伏が使者やその道案内を務めたり、逃亡者や密使が山伏に偽装したりしたことが鎌倉時代から南北朝室町時代にかけて度々あり、帯刀も珍しくなかった[3]源義経主従は奥州へ落ち延びる際に山伏に扮していたと伝えられている(『吾妻鏡』『義経記』等)。」

 

 

ご先祖様と思われる、伊藤清左衛門国久殿も安徳天皇と警護の平家一行の道案内役兼御祈祷役として同行したと伝わっている。

 

 

また、切山へ落ち延び、屋島の合戦後に生き残った清盛直系の一門の清国、清房らははそれぞれ、田辺、真鍋、間部、参鍋と姓を称したといわれる。

 

なぜ、田辺、真鍋、間部、参鍋なのかということを考察すると、

 

当時、熊野先達たちは紀伊の国から瀬戸内海を渡り、吉野川をさかのぼって四国の熊野信仰の中心となる伊予新宮の四国第一霊験所熊野権現を開いたといわれている。

 

また、現地ではこの熊野権現を開き、代々と守ってきたのが、現代の新宮にいらっしゃる田辺宮司の祖先をはじめとし、真鍋、間部、参鍋と名乗った、いわゆるナベ一族である。(その中に、ノーベル賞を取った真鍋叔郎氏も含まれる)

 

当然、その一族は、のちに熊野先達といわれる修験者であったと思われます。

 

それは、以下の現在の地名や一族が繁栄してきた地域からも容易に推測可能です。

 

和歌山県”田辺”市は、熊野詣での瀬戸内海側の玄関口であり、その北に接するのは”みなべ(南部)”町である。みなべは三鍋と参鍋とも音が繋がります。その南、白浜町には伊予から来たと伝承の残る真鍋一族が多く住んでおり、ここの真鍋さん密度は四国を除くと日本でも一番濃い地域でです。

 

 

これら現在の事実も上記の伊予新宮の熊野信仰とナベ一族とのかかわりの伝承を裏付けする。

 

 

 

安徳天皇をお守りして伊予切山に潜行したのは屋島合戦および壇之浦の合戦の前の年、1184年と伝えられ、その次の年の3月に義経が屋島にやってくる。

 

 

その義経が、のちに頼朝に追われて奥州に潜行した際には山伏の姿だったと鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」にも書かれている。

 

 

「前伊豫守義顕、日来所々に隠れ住み、度々追捕使の害を遁れをはんぬ。つひに伊勢・美濃等の国を経て、奥州に赴く。これ陸奥守秀衡入道が権勢を恃(たの)むによつてなり。妻室男女を相具して、皆姿を山臥ならびに児童等に仮ると云々。  」吾妻鏡より

吾妻鏡と義経 (coocan.jp)から引用

 

 

潜行と山伏は切っても切り離せられないのでしょう。

 

 

安徳天皇をお守りし阿波や伊予の国境付近に落ち延びた平家一門も当然山伏の格好をしていたはずです。

 

 

当時、新宮界隈はのちに修験者の僧房・宿坊ともなった仙龍寺と、四国第一熊野権現を中心に山伏のメッカとなっていました。

 

 

そのまま四国の山中で生きながらえるために名を名乗るならば、伊予や阿波の”大西”界隈だと、田辺、真鍋や参鍋の姓を名乗ることが最も安全で、最もありそうで、ばれにくい方法だったのかもしれません。

 

 

もしかすると、のちに田辺、真鍋らの一族から、お世話役や妻となる女性が選ばれて支援していたのかもしれませんが、それがなくとも、田辺、真鍋と名乗っておけば山伏としては自然だったと考えるべきかと思います。

 

 

間違いない!