※2022年7月3日写真を追加して再編集しました。
もう過去最速で梅雨があけてしまってますが、6月某日梅雨入り前の最後の好天休日、里山ハイキング行ってきました。
前回波豆川沿いの古い石仏を発見した道から西向きに見上げたところに、地元ではよく知られた山岳信仰の対象となった山がありました。大舟山と呼ばれています。
この山、南北方向に尾根がつながっており、その西側の三田高平に延喜式で由緒ある高売布神社があります。
ここには神社の鳥居ではなく、この山を遥拝するため、山に向かって据えられた鳥居⛩もあり、
冒頭の写真がその遥拝鳥居(高売布神社)です。
これを見た時から、日本の神奈備、おそらく山がご神体となっていたのだろうと、想像はしていました。
ただ西から見るご神体は険しそうに見え、山頂まで登ろうとは思っていませんでした。
しかし、先日見つけた看板によって、その山の東側に登山道と町石、そして廃寺跡(舟寺)があることを知りました。
これは、これは、里山登山が楽しくなってきた歴史好きにとってはうってつけの山ではないですか。
しかも先日見つけた道端の500年はさかのぼれそうな古い石仏の謎も解けそうな気配がしています。
早速準備をして探索開始です。ワクワク
V-Strom650にトレッキングポールを結び付け、まずは大舟山の麓のバス停まで向かいます。
そこにバイクを止めて、入山。
登山道は表示があり、わかりやすいと思います。バス停の向かいと覚えれば楽です。
入山してすぐ左手、いきなりめっちゃ古そうな五輪卒塔婆の町石が現れます。
一つ目の五輪卒塔婆。あかい苔までついてめっちゃ古そうじゃないですか。それとも赤い塗料のあと?
登山道に少し入ったところの左手です。このへんはまだ民家も近くコンクリート舗装されています。
右手にあるのは土塁かな?
不自然に石と土で盛り上がってます。もしかするとこの土塁の向こう側に武家のお屋敷があったのかもしれません。このあたりも多田荘だったので、多田院に仕える御家人が住んでいた地域です。
200mくらい車も通れそうな砂利道を進んで少し上りにかかったところでしょうか?二つ目がありました。
この辺はまだ、ジムニーや軽トラなら進んでいけるほどの道幅があります。
だんだんと、山道らしくなり。さらにのぼっていくと、
3つ目の町石が。。。どれも五輪塔が上にのった卒塔婆の形式です。手前に四角い石が置かれています。お供えを置く台でしょうか。
銅の部分に地蔵菩薩が彫り込まれたものもありました。
これはじそう仏の下に五町という文字がはっきり見える町石もありました。
どれも摩耗が結構あります。
後でわかるのですが、室町時代にすでに廃寺となっていたのでこれらの町石も室町時代のものになります。今から500年前です。
全部で13基残っているそうです。私もほかに何基か見ましたが写真は省略。
そして初めて右手に現れたこの町石、近寄って写真をとろうとしたときに、左手前の石を踏みはずし、なんと無効脛をおもいっきり強打してしまいました。。痛! (しばらくして気づいたのですが、実はひどい流血があることにも気づいて、どうしようかとも思ったのですが、しばらく休憩し、ひとまずテープでしばりつけ、登りきることにしました。。やっぱり自然は怖いね。大きな石を踏むときは注意しましょう。)
さらに登っていくと、左右がだんだん開けてきます。
こんなすごく力のみなぎる木(山桜)もありました。大きなサルノコシカケもありますが、なんていう木なんだろう?
ちょうどこの木の後ろが一段下がった平地になっているのが見えると思いますが、下から上ってくると右手に階段状になった平地が現れ、この木が見え、そして、その先に見えたのが、、、
おー、っと息をのまされるほどの石垣でした。ここが船寺廃寺跡です。
石垣は谷斜面に堰をつくるように横に数十Mの幅があるように見えました。野面積みですが、立派なものです。こんな山奥に立派なお寺があったんだと実感させられます。
この石垣の右手に登り口のような開けた場所があり、
手前の石垣、積み方が戦国時代以前というのがよくわかります。
そこを登っていくと、一番広い山城なら主郭ともいうべき広場にでるのですが、そこから振り返ると、階段状になった平地が数段あるのがよくわかります。
下に向かって階段状の曲輪、というか僧房?エリアを上から撮った写真です。
一番上の広い平地です。おそらくここに本堂があったものと思われます。
本堂のさらに裏の斜面。大きな石がごろごろしていますので、当時は積まれていたものかもしれません。
説明看板がありました。なんと、百済の僧である日羅上人がここで修行の末に開基されたとのこと、日羅上人はここだけでなく、近くの剣尾山でも出てきた僧で、あの聖徳太子を支援した有名な方です。1400年前の話です。
その後、空海もここにきて七堂伽藍を建造したそうです。寺の名前を自筆で彫り込んだ石がふもとの大舟寺にあります。そして、1499年に廃寺になったとあります。
ということは、つまり書いてあるとおり、今まで見てきた町石のみならずこの石垣も、室町時代以前のものであることが確定です。お城に石垣が多く使われ始めるのが織田信長や明智光秀が活躍している戦国時代後半の16世紀後半の頃なので、目の前にある石垣はそれ以前のものでとても貴重に思われます。
一番上の本堂があった一番広い平地の動画も埋め込んでおきます。
これは本堂平地の後ろにあるくずれた最上段の石垣。この上にも庵があったのかもしれません。
そして、この平地の右手にロープがはってあり、ここからさらに大舟山山頂へ向かう道が繋がっています。
頂上につきました。
頂上から西方向には隙間から高売布神社の鳥居が見えました。
南方向も大阪方向が少し見えました。六甲山があるので、むかし大阪湾からこの山を見て大和に帰ってきたという目印にしたという言い伝えに、少し疑問がわきますが、六甲山の東端が切れた先に生駒山をバックに大阪平野が少し見えるので昔はそこが海だったのでしょう。もう少し西からも見えたのかな?
頂上に説明板がありました。
「天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ」 柿の本人麻呂 の有名な歌から見えたのがこの山であるとかいていあるのですが、
。。。ググって現代語訳を見てみましたが、大船山のことはひとことも触れられていないので、少し苦しいかなぁと。
頂上には、石で祠が組んでありました。これも1000年以上前からあるのでしょうか。神奈備、磐座とかかれていました。やっぱりです。
上の写真の左手にうっすら見える山が南側の六甲山系です。真ん中にはこのあたりの山の方向が記されています。親切ですね。
そして、下山。下山は途中から、左方向におれ、登ってきた参道よりも北側の道を下ります。アスレチックに出る道です。
途中下山道の左手に大きな竪堀のような溝があり、その堤防様土塁の上をあるくような場所もありました。川かなとも思いますが、実はこの山、西側には十倉城という多田院御家人の一人である十倉氏が築いた山城もあり、室町時代の後期から戦国時代にかけては戦いの場であったという側面もあります。
ふもとにおりて開ける手前、三田アスレチックの上に興味深い祠がありました。
灯篭には「地蔵大権現」と刻まれており、多数の苔むしたお地蔵様が群れになっている神社かお寺のあとがありました。
比較的新しい水子地蔵の後ろには、苔むした五輪塔もありました。これらがもともとあったものかもしれません。室町や戦国時代のものかも。。
この場所、上にいくとさらに多数の仏様が岩肌に沿って並んでおりいました。水子にかかわる神仏習合の祠でしょうか。
ずっと昔からあった祠に最近になって、いろいろな石仏が加わり、独特な神社になっているかもしれません。
地蔵大権現を離れると、すぐに三田アスレチックまで降りてきました。
県道までおりると、案内板もありました。写真の左手登山口から上り、ちょうど逆Y字型に右手の道を降りてきた形です。
やまとしては、比較的低山でしたが、途中大規模な廃寺跡や石垣などが見られ、とても”
”山城好きの方”にはお勧めできる印象深いハイキングコースでした。
おまけ、そのご前回の記事にある祠を除いて帰ったのですが、そのそばにお骨様がころがっていました。イノシシの骨かな?
ここまで読んでいただきありがとうございました。