真鍋海賊

 

って、いつごろからいるんだろうと思って、瀬戸内海の海賊についてちょっと調べググってみました。

 

 

 

Wikipediaによると、

 

 

古代大和朝廷の以前から、日本の大動脈であり天然の良港をもつ瀬戸内海沿岸や紀伊和歌山で必然的に生まれてきた海賊衆。

 

 

今は水軍とも呼ばれていますが、こう呼ばれるようになったのは江戸時代以降だそうです。

 

 

海賊というと、盗賊のネガティブなイメージがありますが、陸の武士団が政権を成立させ正統性を感じさせる権力を持ったのに対し、海の武士団である海賊衆は、明確な権力を持たずに時代が下ったため無法者のイメージが定着したともいわれるそうです。(WIKIより)

 

 

こういった海賊の中で、戦国時代に至って大名に水軍戦力を提供できるほど組織化されたグループが水軍と呼ばれ始めたそう。

 

 

有名なのは、小説にもなった「村上水軍」、織田信長の元で彼らと戦ったのち丘に上がった「九鬼水軍」、さかのぼって源平合戦の戦いの結末を左右した田辺湛増率いる「熊野水軍」など。

 

 

 

真鍋海賊はどうだったのでしょう?

 

 

 小説「村上海賊の娘」に準主役級に泉州淡輪真鍋家として出てきますが、実は村上海賊よりも歴史もある古代からの海賊氏族だったようです。

 

 

 

真鍋島の歴史と習俗というサイトには、以下のようにありました。(コピーお許しください)

 

 

【 真 鍋 島 及 び 水 軍 関 係 略 史 】 

 西 暦 (年  号)       記       事
 555 (欽明一六) 吉備白猪に屯倉置く
 556 (欽明一七) 吉備児島に屯倉置く
  

 645 (大化 元) 大化の改新
 661 (斉明 七) 新羅征討の軍進発
 663 (天智 二) 白村江の戦い(日本軍、唐の水軍に惨敗)

 684 (天武一二) 吉備国の分国(備前国、備中国、備後国に分割)により小田郡編制
            ・真鍋島は備中國小田郡魚渚(いおすな)郷に属す 『小田郡誌』 
            ・「眞南辺(眞那辺、眞奈辺)」と書かれていた  《眞鍋島伝承》
 713 (和銅 六) 吉備国の再分国(備前、備中、備後、美作の四国に分割)

            畿内七道諸國郡郷名着好字の制
            
「地名は好事を選び必ず二字にせよ」と勅令により「眞鍋」と改名
 756 (天平 八) 山陽南海諸国の春米の海路運送命令
 806 (大同 元) 山陽道の新任国司への海路赴任命令
 838 (承和 五) 山陽南海道諸国の国司海賊追捕
 862 (貞観 四) 山陽南海一三カ国の海賊追捕命令
 867 (貞観 九) 山陽南海の海賊を追捕
 881 (元慶 五) 再び山陽南海諸国の海賊を追捕
 933 (承平 三) 南海の海賊横行
  

 中略 


1129 (大治 四) 平忠盛、山陽南海の海賊を追捕
1135 (保延 元) 平忠盛、海賊の首領追捕


 中略

1183 (寿永 二) 源平水島の戦い
1184 (元暦 元) 源平一ノ谷の戦いにて「まなべ四郎・五郎」の活躍 
『平家物語』『源平盛衰記』
1185 (元暦 二) 源平屋島の戦い、源平壇ノ浦の戦い

            ・源平合戦の平家一類墳墓「まるどうさま」建立 

真鍋島伝承》
1186 (文治 二) 藤原頼久一族郎党来島 《真鍋島伝承》
            ・真鍋城の築城《真鍋島伝承》
            ・真鍋城を本拠とし笠岡諸島や塩飽諸島など広範な領地領海を統治

 

 

ざっくりいうと、大和朝廷の時代から真鍋島に人は住んでおり、瀬戸内海を航行していた。

当時から瀬戸内海の海賊衆の蛮行には苦労しており、何度も中央から追補指示や追補役人が派遣されている。

 

ということは、ころから真鍋島にも、海賊衆がいたであろうことはほぼ事実である。

 

 

そして、源平の合戦では、平家物語にも一の谷の合戦で「真鍋四郎五郎」という武士が活躍する場面も出てくる。

 

 

記録にあるように源平合戦の50年前に清盛の父である忠盛が瀬戸内海の海賊を制圧していることもあり、

 

 

このころ、おそらく真鍋海賊も平氏方だったはずです。

 

 

この源平合戦では、屋島の戦い、壇之浦の戦いとも海戦であったこと、最後に田辺湛増率いる熊野水軍が平氏から源氏に寝返り檀浦で活躍したということもあったように、瀬戸内海の海賊はすべてどちらかに属していたと思われます。

 

熊野、平氏との関係

 

一方、熊野信仰および、熊野別当家と源氏、平氏の関係はどうだったのでしょう?

 

 

当時院政を行っていたといわれる後白河法皇、この方は33,4回も熊野詣を行ったといわれる熱烈な信者です。

 

 

このような法皇がいらっしゃる時代が、まさに熊野の最盛期だったのです。

 

 

そしてこのころ、熊野新宮別当から田辺別当家に分家した湛快の子である、湛増が熊野水軍を率います。

 

 

下「大先達赤井熊五郎さんのサイト」に要点をまとめた記事がありました。

 

 

もともと、別当田辺家も平家の恩恵を受けた人が多かったのですが、文治元年(1185)正月、新熊野権現において湛増は、境内で”白い”鶏七羽と”赤鶏”七羽を、蹴合わせて神意を占い、「白き鶏勝ちたるは源氏へ」と熊野水軍二百余艘、2,000余人をひきつれ壇ノ浦に出陣したと「平家物語」にあるそうです。

 

 

 

https://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/0b729aa21e4071b1ed5d4f77c4c0ae19

 

 

つまり、源平合戦が始まったころから一の谷の合戦、屋島の合戦(1185年3月)が始まる前の旧正月(2月)までは、田辺別当、湛増の熊野水軍は平家方であったと。

 

また、この熊野水軍出陣の地からほど近い白浜町に真鍋一族が現在まで多くの子孫を残しています。

 

 

実はこの一族の方が書かれた興味深い記事がありましたので、リンクを貼っておきます。

http://www.interq.or.jp/power/manabe/wakayama/siryou03.htm

 

 

やはり白浜の真鍋一族も平家の落人との言い伝えがある。しかも伊予から来たという伝承もあるが、古文書はない。

 

菩提寺には300年以上前から住んでいたという記録もあり、この白浜は昔は瀬戸村と呼ばれていたこと、

 

この地域の漁法である鯛網漁法が瀬戸内の真鍋島 周辺の海域で行われていたこと(約380年前) との話もある。

 

およそ50軒の真鍋家が、同じ綱不知地区に密集して住んでおり、みな親類であるらしい。

 

なるほど、、、

 

 

おそらく伝承は本当なのでしょう。50軒もある一族が伝えている伝承ですので。

 

 

しかし、落人とするなら、熊野水軍に編成されていたのかどうかが気になりますね。

 

 

場所的に水軍があったときに、すでに住んでいたなら組み込まれていたでしょう。

 

 

落人としてその後住み着いたというのも最終的に源氏方についた田辺別当、熊野水軍のおひざ元に隠れ住むのは考えにくいので。

 

 

記事には、漠然と平家の落人とありましたが、私は、当時の熊野詣、熊野先達と檀那制度によるツアリズム全盛期だったことや、伊予新宮の伝承なども考えると、おそらく熊野本宮への参拝の入り口、港として、その真鍋氏の拠点としてすでにあったんだと思います。

 

 

その場合は落人というよりも、熊野海賊の支配下の中でも力を持っており「源平の戦いに加わったイチ海賊衆ということになります。」

 

 

しかも、真鍋島とか、備中から来たというのではなく、伊予から来たという伝承があるのであれば、伊予新宮、熊野信仰との関係が浮かび上がります。

 

四国第一霊験場である伊予新宮熊野神社は鍋三統と言われる田辺氏と真鍋氏と三鍋氏が勧進したと言われていますので。

 

熊野牛王符 - Wikipedia

写真:伊予熊野神社で貰った牛王の護符

 

 

おそらく、伊予宇摩郡(現四国中央市)の銅山側、吉野川を下って、紀伊隧道を越えて檀那方を船で運ぶために、伊予新宮から来たのではと思われます。

 

 

熊野詣で イラスト素材 [ 5661805 ] - フォトライブラリー photolibrary

 

こんな感じで。。。