さて、伊予切山の伊藤家の始祖、伝説の伊藤清左衛門国久さんについては何度か説明しましたが、

 

 

有能な熊野修験者であり、薬師如来に祈祷を行う神官であり、安徳帝を御守りするための道案内役、さらには平家の一員として戦う武士という一面も持った人だったそうです。

 

 

この熊野修験道に関して、実は、伊予新宮に、四国随一の熊野信仰の神社が、この時代にすでにあったそうです。

 

 

ちょうどいいサイトがありましたので、リンクを貼っておきます。

伊予新宮 熊野神社

 

 

この記事には、

 

 

「当社の境内から出土した承応2年(1223)銘の神鏡に「伊予国宇麻郡 古美新宮」とあるのが初見とされます。

当社は四国における熊野信仰第一の霊場で、聖護院門跡帳には「四国第一大霊験所熊野大権現宮」と記されているそうです。」

 

とあります。

 

 

源平の合戦から38年、もしかすると伊藤清左衛門国久さんかそのご子息が生きていた時代です。

 

 

また、その神社の氏子域は、愛媛(伊予)、高知(土佐)と徳島(阿波)の美馬まで、香川(讃岐)は全域だったそうです。

 

 

現に大正時代まで氏子総代は代々、観音寺市大野原町の田野々地区から出ていたとのこと。

 

 

ここで、ふと思ったのですが、「大野原町田野々地区」とは、伊藤清左衛門国久の平家伝説の残る四国中央市山田井切山から、県道で繋がり県境をまたいだとことにある地区です。伊予切山とはかなり近い位置なのですが、熊野神社とは少し距離があります。

 

 

 

昭和初期までは、切山地区は県道が四国中央市方向に通っていなかったこともあり、文化的には香川県側の大野原地区とのつながりが強かったそうです。

 

 

実際、切山の人に聞くと、切山伊藤家一族の旦那寺は、その大野原の田野々地区にある浄土宗の寺院、法泉寺になるんだそうです。

 

 

これは偶然の一致でしょうか?

 

 

切山伊藤家や真鍋家は、最も近い文化圏である大野原田野々地区に旦那寺があるほどその地域に出入りしており、

 

 

そこから、「四国第一大霊験所熊野大権現宮」熊野神社の氏子総代が代々出ていたと。。

 

 

切山の伊藤清左衛門国久とその一族の熊野信仰が田野々地区の人を巻き込み、(おそらく長い歴史の中で通婚関係もあったと思います)、

権威のある修験者だったはずの伊藤清左衛門国久とともにその最も近い氏子が権威を持つのは不思議ではない。

 

 

#かなーり、斜に構えてみると、熊野神社の氏子総代がそこにもとからおり、切山の平家伝説を聞き、熊野修験者の地位を上げるためにでっち上げたという可能性もないではない。。。

 

 

そういえば、切山の平清房直系子孫の真鍋潤さんから、”田辺家系譜”も江戸時代かそれ以前に大野原のとある人に貸し出したら、原編を抜き取られて、写しだけ帰ってきたと聞いたことがありました。

 

 

大野原とは田野々地区のことかもしれません。とにかく、この伝説との関係はかなりありそうです。