徳島県に伊藤さんが少ない件に違和感を感じ、何かあると考えていたのですがが、


ふと思いついたことがあります。


このテーマの最初に四国の古くから伊藤氏は、ほぼすべて平家の落人であると最初に仮説を立てたんですが、



それが、徳島県に伊藤さんが少ないことの理由ではないかと? 

 

 

 

 

また、その事実も”四国の伊藤さん平家の落人末裔説”の裏付けになるんでは無いかと。



伊予切山の真鍋家に伝わる「田邊家(平清国)系譜」にある切山平家伝説では、屋島の戦いを逃れるために三好郡の祖谷に逃げて来たが、源義経が阿波勝浦に入ったと聞き、

 

 

 

 

 

 

 

安全の確保のためその後に瀬戸内に逃げることも可能な瀬戸内海に近い伊予切山の土釜の地に隠れたとある。

 

 





しかも、

 

 

屋島の戦いが劣勢と聞きおよび、半年間隠遁した切山を離れ、平清国、清房、清行、清重、伊藤清左衛門国久ら五士は幼い安徳天皇をつれ尾根を越え讃岐国の須田の浦(香川県詫間町須田)までお連れし、

 

 

 

写真:香川県三豊市詫間町須田地区

 

文治元年(1185年)正月、迎えに来られた平知盛、平教経らご家門の人々にお渡しし、船出され、長門国赤間へと向われた。

 


その後、阿波の田口氏がねがえったことを風聞したので、田内氏を倒そうとその足で阿波に出向いて戦いましたが、戦いにやぶれて命からがら切山に引き上げて来た。

 

 

とあります。

 

 

田口氏は清盛の忠臣であり、屋島の内裏を整えるだけでなく、これまで平氏の一軍として数々の戦功をあげてきましたが、志度の戦いで息子が生け捕りされ、寝返りを余儀なくされたそうです。

 

 

おそらく、安徳帝から注意をそらすためにの意味もあったかと思いますが、その寝返った田口重能のもとで一戦交えたのだと思います。

 

 

そこで思ったのですが、安徳帝を連れて山深い三好郡祖谷から逃がれたりするほど阿波方面を警戒し、

 

 

徳島を支配していた田口氏が源氏に寝返ったり、鎌倉時代になっても、佐々木氏、小笠原氏と源氏の息のかかった武将が阿波の守護を務めたりするほど、当時の阿波国は源氏色が濃くなっていますので、平家の落人が阿波(徳島)の主たる地域に少ないのは理にかなっています。

 

 

つまり、鎌倉時代以降は準平氏であった伊藤氏が、源平合戦のさ中に落人となり、四国の山中や、山口、山陰、九州の奥地に散らばって隠遁した。

 

 

このための伊藤姓が四国の西側(愛媛、高知)、壇之浦付近(山口、島根、福岡、大分)に広がった。

 

 

 

 

伊藤姓の分布にもそれが表れているのではないでしょうか?

 

 

だから、やはり徳島県に伊藤姓が少ない。

 

 

もしいたとしても公に名乗れないので、おそらく藤の文字は残して伊藤の先祖の佐藤とか、藤だけあわせて本は藤原の藤本とか伊藤のイを後ろに持って来て井を当てて藤井とか、藤田とか藤川とか名乗ったのではと思います。だから?これら藤なんちゃらさんは多い。

 

 

実際伊藤さんが藤井さんに改名した例は日本姓氏辞典にも掲載されていました。

 

 

すなわち、当時の徳島県(阿波)に逃げ込もうとした平家と共に四国屋島に入った伊勢の藤原一族(伊藤さん)は、源義経とその影に駆逐され、高知(土佐)や伊予の山中に落ち延びた。



これが四国の伊藤姓は平家の落人の末裔であることの、800年の時を経た今も残る状況証拠になっていると。

 

 

これが成り立つなら、やはり、現四国中央市の伊藤一族が、旧伊予国宇摩郡切明村(現四国中央市山田井切山)の平家の修験者伊藤清左衛門国久の子孫であるという一族の口伝と田辺家系譜は、実話であっても不思議のない話であり、

 

 

 

その修験者であり守護役であった伊藤清左衛門国久の末裔か分家が、

 

 

 

当時すでに平家の落人隠遁地であった佐野の、

 

 

 

阿波の伊予街道(当時はもっと尾根伝いだったとの話もある)と讃岐への曼荼羅街道の分岐点であり、

 

 

雲辺寺へのお遍路や物流の拠点とする、まさに街道辻の丘の上の高毛台地を拠点とし、

 

 

 

生活と阿波国の情報収集を兼ねて住みついていた、

 

 

 

さらにはそこで一族が、修験道となじみが深く、平氏守護や、災厄を除き、福寿を増進するという妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)を祀り、

 

 

復興の祈祷を行った場所が妙見社となり、現代の佐野神社となった(とくに、守護や災厄を除くという神様、仏様である点)、

 

 

というのも非常に理にかなっていると思われます。

 

 

やっぱり、間違いなく、我が家のルーツは平家の落人であり、

 

 

おそらくそれは、すごく自然なかたちで、

 

 

伊予切山の伊藤清左衛門国久を始祖とする伊藤一族と同じ一族であるといえると思います。

 

 

これ、四国中央市の伊藤一族もおそらく知らない、切山から東に県境をまたいだ池田町佐野にも伊藤清左衛門国久の末裔一族が昔のままの街道の三叉路の丘の上に住んでいたという、新しい発見のニュースかもしれません。