我が直系先祖とその一族は、江戸時代は阿波国と伊予国の国境に接する佐野村の砦(佐野城)の裏で長きにわたり神主と農業を営んでいたらしいことがわかってきました。

 
 
1811年(文化8年)の棟付帳では、高嵯峨山の東北斜面、讃岐からの街道が伊予街道に接する辻の高台に8家ほどあったようです。
 
 
このルーツ探しを始めた最初のおどろきとひらめきは、伊予国宇摩郡切山の伊藤清左衛門国久の平家伝説とその系譜である古文書のなかに、「伊藤清左衛門国久」の名前をネットで知ったことからででした。
 
 
おそらくこれが我が祖先であろうと調査を開始し、自身の本籍地や、周辺地域の状況や平家伝説、遺跡や立地、本家と我が一族の家紋などから矛盾しないことを確認したのですが、同時に800年を辿るのは途方もない作業であることを今さらながら知りました。
 
 
そんなおり、以前こちらから出したお手紙をきっかけに連絡をいただいた清左衛門末裔本家筋のHさん方から連絡がありました。
 
 
本家は、昭和初めのころにすでに切山を降りており私の本籍地と同じ、四国中央市金田町に居を移していたのですが、そのご子息の方々は、地元に残る人がいれば、稼ぐために東京に出る人がいるなど分散しているようでした。
 
 
その本家筋次男のHさんは東京に出てもう60年、すでに85歳(2020年)におなりになったとのこと。
 
 
そのHさんが、この一月に東京から帰省するとのことで、よければお会いする機会はないかとご連絡がありました。
 
 
こちらも是非と言うことで、頑張って二週連続の帰省を実現し、ついに本家の方に直接お会いする事ができました。
 
 
ついに。
 
 
どうだったか?
 
 
結果として、大いに歓迎してくださりました。
 
 
実はここまで最後まで切山に住んでいた”関太郎さん”という方のご子息(過去に訪問済)が、直系本家筋と、切山の平清房直系子孫の真鍋潤さんからお聞きしてたこともあり、そちらが本家かと思っていました。
 
 
しかしそれは少し違っていたようで、実はこちらのH夫さん筋が長男本家筋だったとその日知ることになりました。
 
 
関太郎さんのお兄さん(大吉さん)の孫が、このHさんだったとこと。
 
 
その証拠がこれ、「伊藤家系譜」です。実はこれ100年以上前に、この古文書の原本である切山真鍋家にある「田辺家系譜」を写したものとのこと。(※一説によると田辺家系譜も原本からの写しといわれています)
 

 
 
そのため、この文書は、
 
「平朝臣忠盛外孫平清國田邊太郎
平清近田邊平太」
 
の名前で締めくくられています。
 
 

 
 
わざわざこれを、私たち親子に見せていただくために持ち出してきてくれました。
 
 
Hさん、小学校のころ、この古文書の写しを学校に持っていき教師に見てもらったところ、「伊藤君は平家の子孫のようだな」と言われたことが記憶に残ってるそうです。
 
 
原本の系譜には田邊家系譜とありましたが、伊藤清左衛門国久の名前も平気され、安徳天皇を守護する物語の中心的人物として記載されていることもあり、そのまま切山伊藤家の系譜として表題が記されています。
 
 

 
 
 
 
 

 
なんと除籍謄本なども見せてくださりましたが、やはり明治13年までご健在だった「浅吉」さんまでがたどれる最も古いもので、それ以前の名前は位牌にはあるが、実際の関係はあいまいとのことでした。
 
 
おそらく、我が佐野高毛の伊藤一族は戦国時代以前からそこにいた様子があり(1700年代で数家、1800年代で一族が8家もあった)、江戸時代の国境をまたがる移住が管理され困難だったこともあり、おそらく、この切山の伊藤家の分家と仮定しても、つながるのはずっと昔、戦国時代以前、すなわち西暦1600年以前。
 
 
もしかするとさらに数百年以前、すなわち、鎌倉、室町、から安土桃山時代ということになります。
 
 
これをたどるには、棟付帳をさらに数世代(明暦、延宝、享保など1650年代までのものが残っているらしい)遡って調査し、さらに伊予国側の古文書である「宗門人別改帳」や、旦那寺の過去帳を調べていかないとわからないことになります。
 
 
さらに、江戸時代は農民は名字を名乗ることができなかったので、文書があったとしてもさらに大変です。
 
 
安土桃山時代は、「太閤検地」の名で豊臣秀吉によって全国的に戸籍調査が行われたようですが、この地域のものがあるのかどうか不明です。これがあると名字もあるかもしれません。
 
 
鎌倉時代、室町時代は戸籍の制度がなかったようです。。
 
 
それを平安初期や大和朝廷の時代までさかのぼればあったらしいのですが、まあ、それはいいとして。
 
 
なので、これ以上さかのぼるのは、これまで以上に難易度の高いものになりそうです。
 
 
あとは、”先祖と歴史とロマン”というかたちで、良いイメージだけ残すのが吉かなとも思えてきました。
 
 
そのほか、家宝として金の茶釜や、国宝にもなっている名刀を多く輩出している最も格式の高い粟田口の名の入った脇差しがあったなどの話もしていただきました。もう先祖が売ってしまって無いそうですが、格の高いご先祖がいたということの信憑性が高まる話だと思います。
 
 
これまでにわかっている状況的なものを箇条書きで記しておきます。
 
 
・切山「伊藤清左衛門国久」直系末裔の家紋が「丸に五三の桐」紋であり、高毛の伊藤一族と同じである。
 
#実は後日、佐野高毛の伊藤家と同じ墓地にある他家(石川、岡田、久保、天高、西谷、山口)の家紋も丸に五三桐紋であったことを確認。。。
#佐野城の城主であった佐野氏の血統を継ぎ、お番所の役人であった石川氏も同じなので、もしかすると、その配下だった付近の氏族や農民がみな同じ紋を使ったという可能性もあり。逆に石川氏が伊藤と縁戚関係だったかもしれないし。
 
・切山と佐野高毛は尾根筋と谷筋の古道で結ばれている地域であり、その距離は直線で6km程度、山道で10km程度。 
 
・切山から佐野までは、ほぼ尾根をいくつか超えないといけないがほぼ山道のみで到達可能。
#番外として、TV番組のぽつんと一軒家で紹介されていた切山の久保家を経由してもつながります。
 
・佐野高毛は、安徳天皇が隠遁されていた祖谷からの道筋で阿波と伊予の県境。
 
・佐野は、阿波、伊予、讃岐の辻町。宿場町であり、2つも番所があったところでもある。
 
・高毛は番所から見上げる丘の上、高嵯峨山南面(街道側)にあった旧佐野城跡の北側斜面という要所であった。城主から信頼されて
いないと住めない場所でもある。
 
・高毛の伊藤一族には、佐野神社(旧妙見神社)の神主も数百年にわたり代々務めている一家があった。(高い地位の熊野修験者であった伊藤清左衛門国久と、神道や修験道というところでつながる)
 
・佐野村(金氏、森常など)そのものが、平家の落人潜伏地であった。
 
・佐野村の東西南北の隣村すべてに平家落人伝説があるような地域である。祖谷をはじめとして三好郡山城谷、大野原海老済と有木、馬路源氏丘、新宮等。
 
 
・高毛の畑からは縄文式土器や弥生式土器も出土している、長きにわたってほそぼそと人が住んでいた小さい台地である。
 
・高毛は切山ほどではないが、高低差の大きい斜面という立地である。
 
・そもそも三好郡では、伊藤という姓は非常に少なく、三好郡誌などから紐解くに、伊藤一族が連綿と住んでいる地域はここだけである。
 
・西方の伊予側は、現在の四国中央市川之江町、金生町下分、金生町山田井、金田町金田あたりに伊藤姓が存在する。同時にその場所には伊藤一族がお祀りする熊野速水神社や、切山平家の子孫をお祀りする土釜神社が存在する。そのほとんどの筋は切山の伊藤家をルーツとすると伝わっている。(「えひめ名字の秘密」とう本にも、そう書いてあります)
#ちなみに、切山の伊藤神社の鳥居を新しく作ったのはこの金生町の伊藤一族。
 
 
状況的には、ほぼ間違いなく同族であるんですが、家紋以外はほとんど証拠がない。
なんか佐野の伊藤一族にも、長くつたわる家宝でもあればいいのですが。