三好郡誌と言う1924年(大正13年)に発刊された古い文書があります。
 
 
 
 
 
旧三好郡の歴史について、当時の記録からまとめたもので特に江戸時代は棟付帳など古文書が豊富なため、かなり詳しく掲載されています。
 
 
そこに平家の落人についての記述がありました。
 
 
「平家の落人

安徳天皇の寿永四年二月十八日屋島の一戦に敗兵が白地の北に来つて野営したそのあと今に平家の乱(ヘケントヲと読む)と昔の名残を遺している。

隣村山城谷、美馬郡祖谷および佐野と隣している宇摩郡桐山(切山)等には平家の敗兵が潜伏した証拠として子孫が今に繁栄している。

口碑によれば当時の馬路村は足跡未だ入らない深山であったので平家敗残の兵の徒が入り込んで潜伏した。
 
現金年(兼候の仮名か今はカントウシ読んでいる)、安永、鳴年(成俊の仮名か)、峰友(宗友の仮名か)、源氏岡等の地名がある。
 
その中源氏岡は今畑となっているが、開墾した折には刀剣類を掘り出した事があったと言う。
 
また佐野村の金氏(兼氏の仮名か)、森實(盛實の仮名)、森常(盛常の仮名か)有安などの地名のあるのは確かに知れんが当時の遺跡であろうと言っている。」
 
 
お~!爆  笑 そーゆーことだったのね。
 
 
あの、佐野、馬路地区のコアザは仮名にして前後付け替えると、なんと多くが平家の武将の名前になる!
 
 
800年前の落人たちが現代の我々に残した「謎解き」みたいですが、これって興味深いよね。
 
 
日本歴史地名体系にも、
 
 
佐野地区では、森常(モリツネ)、森実(モリザネ)、金氏(カネウジ)、有安(アリヤス)、馬路地区では峯友(ミネトモ)、源氏岡(ゲンジオカ)、金年(カネトシ)、鳴年(ナルトシ)、安永(ヤスナガ)と言う小字(コアザ)の地区は平家の潜伏地だったとの言い伝えがある、
 
 
という記述があります。
 
 
おもしろいのは、それぞれの小字が平家の著名人の名前をモチーフにしているのではと、すでに大正時代の三好郡誌の中で推測していること。
 
私も現代のWIKIでそれぞれ地区名(小字)のカナと平家武将の名前との関係を調べてみました。
 
#古文書の漢字は元々いいかげんなので読み方となる「韻」が重要です。
 
①森常(モリツネ)
 平恒盛 または 経盛
 ツネモリ →  モリツネ
 「盛 モリ」は伊勢平氏の通字として使われている。
 
②森實(モリザネ)
 平実盛 (=斎藤実盛?)
 サネモリ →  モリサネ →  モリザネ
 森實さんは今も住んでいますし、池田町や四国中央市あたりには多くの子孫がいらっしゃいます。
※追記 森實氏は、もともと佐野城の城主佐野次郎三郎の子が森實に住み、その地名をとって森實を名乗ったと三好郡誌にありました。
 
※追記 四国各地で行われていた実盛送りという虫送りの伝統行事はこの地方でも行われていたようです。この辺では東の方からリレー形式で佐野の県境まで練り送り、伊予へ送っていたようです。
 
③金氏(カネウジ)
 平兼盛、兼信、など 多数
 カネ** 兼盛をはじめとする系統は「兼」を通字として使われている。
 
④福田井(フクダイ)
 平兼盛が九州の福田荘に派遣され、以降「福田」姓を名乗った。福田姓の始祖とされている。
 福田井と金氏は佐野の中心地区で隣合わせている。かなり不自然です。
 
⑤影(カゲ)
 伊藤基景 景綱 景清など
 準平氏と言われた伊勢藤原氏である伊藤氏は「景カゲ」を通字として使っている。
我が伊藤家のご先祖様、末広屋吉左衛門や悦太郎が住んでいたのはこの「影」地区を含む「中組」と呼ばれていた地域。
 
⑥峯友(ミネトモ)
 平知宗 
 トモムネ →   ムネトモ → ミネトモ
 ここには、峯友さんや、峯本さんが今も住んでいます。 
 
⑦金年(カネトシ、カントウシ)
 平俊兼 (平兼盛の数代孫なので、時代が異なる)
 トシカネ →  カネトシ
 
⑧鳴年(ナルトシ)
 平成俊(公家、藤原成俊ともいう。時代も少しあとなので。。。)
 トシナリ →  ナリトシ →  ナルトシ
 
⑨有安
 平保業 (都落ちせずに京に残り、源頼朝についていたので。。。少々強引か)
 ヤスナリ →  ナリヤス →  アリヤス
 
⑩安永
 ちょっと不明
 
⑪高毛(高家)
 この高毛地区の山のアザ名が高嵯峨山と呼ばれていたらしい。嵯峨は京都の嵯峨野の嵯峨。
また青色寺の過去帳では、「高家」と書かれている。南面には佐野古城があった場所だからか、妙見神社の神主一族がいたところだったからか。標高も位も高い場所という意味か。。ここには近年までここにしかない「天高」姓の方(伊藤家の墓守もしてくれていた)も住んでいました。この天高家を囲むように高毛伊藤一族の墓地がありました。
 
ただし現在につながる伊藤一族の位は江戸時代は高くなく、神主家以外は普通の百姓だったと思われる。
 
うーん、やはり落人の潜伏地なのは間違いなさそうです。
 
また、はじめて、同じ文献に平家の落人集落として「伊予切山(桐山と出ている)」が引用されていました。
普通に考えてもこの距離なので関係はあるのだと思います。