*2019/12/6 追記

*2020/3/26 追記

 

 

2012年当時の住人の名前と電話番号、住所が表示される、住所でポンというサイトがあります。



https://jpon.xyz/2012/23/1/index.html

 

 

ここの住所リンクをクリックすると、住宅地図と地域研究BBSマッポン!の地図が表示され、拡大していくと地図上に家屋の形の横に住人の名前が表示される便利なサイトがあります。

 

 

これ、プライバシーの観点から大丈夫か?とは思うのですが、一応今のところ誰でも見えるサイトなので、コピペさせていただきます。てへぺろ

 

 

#本ページ、今も残っていますがいろいろと物議をかもしているサイトのようですので、リンクだけを残して池田町佐野地区の地図画像の掲載は控えさせていただくことにしました。。。すいません。

 

https://mappon.net/

 

 

※Google Map


ここからご先祖様の最も古い戸籍の住所がある

徳島県三好市池田町佐野の現代の住民の方の姓を、過去帳や棟付帳で見かけた苗字からピックアップして順にざっくりとネットの日本姓氏語源辞典で調べてみました。

 

 

 

※以下便宜上**氏と及びしていますが、厳密には明治以前までは氏と苗字は区別されていたので、その氏とは異なります。

 

 

真鍋氏

    実は、先に調査した青色寺の過去帳にあるお名前と年齢、1812年(文化8年)の佐野村棟付帳にある小家の父子の名前と年齢が初めて一致した家です。

 

 

 地図に真鍋氏は見当たらないのですが、当時は真鍋和三郎さんという方が楮植付裁判役という役職を郡代官より指名され苗字帯刀が許されていた家系です。

 

 

 この辺りは楮(こうぞ)の栽培も盛んだったようです。

 

 

 因みに、真鍋氏は伊予切山の築400年重要文化財真鍋家住宅のご主人で平清房の直系子孫である真鍋家と同じ”真鍋”です。伊予切山で800年ともに生きてきた真鍋家と伊藤家は深いつながりがありますが、そこからほど近いここ佐野にその両家の関係が同様にあっても不思議ではありません。

 

 

また、1811年に4家あったこの一族が明治以降どこに移住したかは不明ですが、おそらく煙草の葉のビジネスで池田に行ったのかもしれません。。

 

 

池田のうだつの立つ旧家にも真鍋家が現存しており、何か関係があるのかもしれませんが、別系統も多いので不明です。

 

 

石川氏

 江戸時代初期、寛永9年(1632年)に伊予、讃岐の国境の守護を申し付けられた、寛文4年(1664年)に佐野福田井に自費で番所を設け家来も置いた、佐野城主佐野四郎左衛門の末裔。そのまま番所の守護を代々引き継いだ。佐野の明主。

 

 

この石川家のひとつの墓地は高毛の集合墓地にある。家紋は五三の桐。なぜ石川姓になったかは不明である。隣接する伊予の川之江には石川姓は多かったことを記憶している。

 


柿久保氏

 佐野発祥の苗字と思われる。全国でここのみ。現在久保さんも県境付近に数軒いらっしゃいますので、久保氏と柿久保氏は何か関係があるかもしれません。(テレビのぽつんと一軒家で紹介された愛媛側県境の山に住む方も久保さんです)

 


森常氏

   隣の四国中央市下川発祥?全国で数十人の姓。少数姓でかつここに土地の名前があるので恐らく佐野発祥の姓 

 三好郡誌(1924)には、平経盛とか恒盛のカナを逆にしたものか?とあるが。


 

森實氏

    四国中央市妻鳥、金川、中ノ庄発祥で現存の苗字。やはり四国中央市(旧宇摩郡)発祥の姓。

 三好郡誌(1924)には平実盛のカナを逆にして漢字を当てたとある。

 

 

 旧宇摩郡で育った私も、同級生に森實さんがいましたが、これが宇摩郡発祥の姓とは思いませんでした。

 

 その森實氏が佐野発祥かどうかは真実は不明です。
 

 

峰友氏

    佐野発祥の苗字と思われる。全国で地名はここのみ。峯友と書く家もあるが同じ。全国100人くらいだが、長崎、高知、東京など分布はバラバラ。

 三好郡誌には、平知宗のカナを逆にしたものかとある。
 

 

峰本氏

    地形。奈良市と三好市池田町馬路に分布。峰友の本の意味。居住も峰友さんと同じ峯友地区に多いです。峰友さんに近い方、同地域に住んでいた方かもしれません。平家の落人潜伏地の伝承があり、同地域から発祥したか、その時代に奈良から来て屋号から地名となったか。

 

 

松下氏

    池田町馬路松ノ下タ(マツノシタ)発祥。同地に分布あり。松下って松下幸之助をイメージしますが、全国にある苗字です。ただし、池田町の松下は、佐野の隣の村の馬路村松ノ下が発祥だそうです。

 

   
日浦氏

 池田町漆川日浦発祥。同地に分布あり。三好郡池田町の南、三好郡祖谷の北の山村です。


※日浦という地名はどうやら平家と強いつながりがあることを後でとある本から知りました。


壇ノ浦の合戦後に多くある中国四国の日浦という地名には必ず平家の落人の伝説があるそうです。ここ佐野にも、北側に日浦山という山がありました。🤔


 

 

岡田氏
 地形。岡と田から。徳島県美馬郡つるぎ町貞光皆瀬では明治新姓と伝える。

※徳島県吉野川市鴨島町牛島では和歌山県・三重県南部(旧:紀伊国)の岡田村からと伝える。和歌山県岩出市岡田は平安時代から記録のある地名。

※群馬県前橋市中内町では徳島県の岡田の出と伝える。時代、位置不詳。徳島県三好郡東みよし町西庄岡田に分布あり。同地では群馬県に戦国時代から居住していたとの伝あり。

 

と、三好郡や徳島関連が多い。和歌山から来たという話がその大元にあるので、そこ起源で三好郡界隈に広がった姓かもしれない。そうであればおそらく源平合戦の平氏の落人系である。
 
 
内田氏
  全国にあり。内田町や内田村という名の地名由来が多い。内の田という意味の地形由来もあり。
 
 日本歴史地名大系によると、隣の愛媛県四国中央市金田町半田(佐野から県境の峠を越えて伊予側の街道沿いにある地域)にある、熊野三所神社は紀伊国有馬村から勧請したらしいが、1391年(明徳弐年)に三河国から移住した「内田氏」が社務に従ったという記録があるので、おそらくここらあたりから分家派生、越境帰農していると思われる。
 
 
なので、佐野村の上組あたり(西側、愛媛に近い方向)になぜか多い。
 
 
文化8年の佐野村棟付け帳では、五人組となり苗字帯刀が御免となっている内田政次郎氏が見られる。また、三好郡誌には庄屋内田直左衛門の名もあり。(青色寺過去帳に慶応二年没68歳とあり、棟付帳には政次郎の弟源五12歳とあり)
 
 
三好郡誌では他村にも庄屋として苗字が見えるので、この一帯では内田家は有力氏族だったのだろう。
#後日内田家(旧105番屋敷)の方には直接お話をいろいろ聞くことができました。
 
 
また、ここでもルーツは紀伊和歌山や三河国という起源があり、源平合戦の落人との関連が疑われる。
 
 
内山氏
 全国の内山地区発祥。徳島は記載がなかった。内田さんの近所に多いので、内田氏の分家または明治新姓かもしれない。
#後日、我が高祖父と曽祖父がこの内山さんと内田さんの近所の112番屋敷に住んでいたことが判明しました。内山さんは旧110番屋敷。
 
 
土井氏
 棟付帳では、沼谷という小字(讃岐方向曼荼羅峠の手前、高毛の西)に多く、苗字帯刀を許されていた志士一族。「土居」の異形らしい。私の育った四国中央市土居町にも分布があるらしい。同じ古代からある宇摩郡で、1000年前は宇摩郡の中心だった土居町津根に絡む姓なので、そこから東向かって来ていても不思議はない。住んでいる地域も県境方向である。
 
#因みに、「文化8年棟付帳」では、同じ一族に「津根右衛門」という名前も見られ、古代からの集落だった土居町津根との関係も大いにあると推測される。
 
 
大西氏
徳島県三好市池田町大利大西発祥。南北朝時代から記録のある地名。ほかに奈良、高知、岐阜などに分布。
戦国時代の武将、阿波の大西氏は阿波国三好郡大西(徳島県三好市池田町)をルーツとする。Wikipedia では、

編集大西氏鎌倉時代荘官として京都より派遣されていた近藤氏土着改姓したもの。

とする。香川県にダントツに多く、四国中央市、三好市(すなわち池田町佐野周辺)にも多い。ちなみに、わが家系も曽祖父で一旦大西家に養子で出て、祖父の代で伊藤に戻った。

 

 
舟戸氏
 船戸の異形。清和源氏の足利氏流の一族もある。熊本県球磨、他に愛知県、三重県志摩に多い。これも源氏や平氏にまつわる。
 
 
古本氏
広島県兵庫県大阪府創賜。古く本となる状態から。徳島県美馬郡つるぎ町貞光捨子谷南・捨子谷北では古くから住んでいた住民による明治新姓と伝える。
 
 
天高氏
愛媛県徳島県大阪府。推定では空に近い高い場所から。徳島県三好市池田町佐野高毛に分布あり。全国数十人の小数姓。
まさに我がご先祖がいた高毛台地の上にある佐野高毛地区の住民です。
 
 
ご先祖の墓地を見守ってくれていたのも、今はもう亡くなくなられましたが天高さんという方でした。墓地は天高さんの畑と、現伊藤一族の茶畑の間にありました。
 
「高毛」は、青色寺の過去帳では天保年間から明治にかけて全てが「高」と記載されていました。
 
高家の天高さん。。。 あきらかにこの土地からつけられた苗字と思われます。
 
「高家」の漢字の意味については、また別の機会に触れます。
 
 
・他に、西氏、神崎氏、和田氏など。。
 
まとめると、
 
 
・平家(または源平合戦)関連のある苗字が多い。地名歴史大系から平家落人の潜伏地だったことがわかっている。
 
 
・紀州和歌山起源の姓もある。紀伊の国は熊野信仰が厚く、同様に宇摩郡含めてこの地域も熊野信仰が盛んだった。 このため江戸時代以前は修験者が多く、関係が深かったと思われる。(熊野三所神社の神職、内田氏の例)
ちなみに、安徳天皇を守護したといわれる切山の伊藤清左衛門国久は紀州熊野神社の修験者。
 
 
・佐野地域から発祥したり、三好郡や隣の宇摩郡発祥の姓も多い。(これが何を意味するか?)
 
 
・この地域の小字の地名に由来する姓も多い。
 
 
・おそらく山深い地域なので、源平の頃や鎌倉期、戦国時代にこの地域で発祥した姓が脈々と残っているか、農民が明治になって周囲にあやかったりお寺につけてもらった明治新姓なのか、どちらも可能性があり不明。

 
・現四国中央市で、散見される姓は古い時代から存在する姓と思われ、一部の地域にのみわずかにある姓は明治新姓の可能性が高い。
その観点から言うと、伊藤、真鍋、内田、岡田、森実、土井、大西などは古い。そのうち、森実、土井、大西は地域の古くからの姓。伊藤、真鍋、内田、岡田は記録や分布の通り外から来た姓。
 
 
 
これらから、やはり平家の落人が潜み住んだ地区という言い伝え通り、山中のその子孫が脈々と現存する。
 
 
ちなみに日本歴史地名大系及び三好郡誌によると、佐野と隣の馬路地区では、峯友、森常、森実、金氏、有安、源氏岡、金年、鳴年、安永と言う小字(コアザ)の地区は平家の潜伏地だったとの言い伝えがある。
それらにまつわる苗字も。。
 
 
また、宇摩郡新宮村には四国の熊野神社の一宮があったり、金田町半田に熊野三所神社があったり、和歌山(紀伊の国)との関係も強そう。
 
 
県境の愛媛側の四国中央市川滝には、紀伊氏の末裔である喜井一族が多く繁栄している。
 
 
 
また、またまた源平合戦との関係や、熊野、紀伊との関係の状況証拠が増えました。
 
 
おやすみなさい。