今日は天気が良く、、
 
 
スクーターに乗って
 
 
 
「日本歴史地名大系 徳島県の地名」平凡社
 
 
を大阪大学附属図書館で閲覧してきました。
 
 
この本、一冊2万円もする本で、地名や旧跡にその由来や歴史が事細かく書かれています。
 
 
結果、旧阿波三好郡佐野村の歴史だけではなく、周辺の歴史も分かり、
 
 
これまで点だった情報が面になり、ただの個人的な希望的推測だったのが、“事実”と感じるくらいの補強ができる、という収穫がありました。以下箇条書きで。
 
 

①周りの山谷は平家の落人潜伏地だらけ

 

安徳帝潜伏地で有名な祖谷のかずら橋周辺のみならず、旧佐野村の北側の山城谷村、銅山川に沿った金砂湖周辺、旧新宮村周辺、全て平家の落人潜伏地だったようで、

 
遺跡(平家さん塚とか)や神社、言い伝え、地名(血原とか平野とか、)、住民の名字と、、、今でもなんらかの多くの名残があるとのこと。
 
 
四国の山の中に都の源平藤橘
 
阿波三好郡と伊予宇摩郡嶺南地方は数十の”名”という単位(小さい村)で編成され、各名には名主がおり、阿陽旧跡記という古文書には、54の名があったとのこと。
 
 
この住民のご先祖は平家のみではなく、古くに落ち籠りした、古代士族の源平藤橘(源、平、藤原、橘)の末裔とのこと。
 
 
四国の山の中に都の源平藤橘。源平合戦との関係がないと考えるのは不自然です。
 
 
平家伝説があることは知っていましたが、そんなに多いとは思ってませんでした。
 
 
またその名の中に”国久名”というのもあるのが気になりました。(伊藤清左衛門国久の”国久”)
 
 
③一族のお墓のある池田町佐野そのものも平家の落人の言い伝えがありました(なんと!)。
 
 
小字(コアザ)の金氏、森常、森実(それぞれご先祖様の末広屋吉左エ門が住んでいた中組に属す)、有安共に平家の落人潜伏地だったらしい。
 
 
伊予切山、東西南北の周辺のみならず当地佐野もそのまま潜伏地でした。
 
④江戸時代の佐野高毛地区(うちのご先祖一族や墓地がある地域)にも佐野で2つ目の御分一所という御番所があった。
 
 
番所以外にも荷抜けといって、関所を素通りしていく荷があとを絶たなかったとのことで、
多くの役人が見張っていたらしい。
 
 
⑤高毛の南面にあったといわれる佐野城の城主佐野丹波守の末裔石川一族が役人を担当していた。
 
 
というか、伊藤一族の高毛地区も伊予や讃岐に抜ける裏街道ルートにあり、監視にはうってつけの場所。おそらく佐野村でも監視役を任されていたはず。
 
因みに佐野城は、天正10年(1582年)に大西頼武の息子で、大西覚養の弟、大西上野介頼包が築城、江戸時代には佐野丹後守が居城とした。
 
⑥最後にいろいろ地図に書きこんでみました。
 
 
村の地形やそのつくりと時代背景を考えると、一族が高毛に先に住み着き、そのうちの一系統である神主系統が先に神社のある中組に降りてきた。
 
その後、うちの先祖の系統が江戸時代のいつかに中組に降りてきた。。。
 
 
戦国時代以降の背景を考えると、高毛はかなり重要な地域であり、そう簡単に住み着ける場所ではなさそう。
 
 
ということは、戦国時代付近から住んでいたと考えるのがよさそう。
 

 
実際に神主一族は墓碑から江戸前中期まで遡れる。
 
なのに、我が家の系統含む同族の他の一族のお墓には「・・・の命(ミコト)」という神道戒名は付いていない。
 
 
家紋も「七宝に花菱」という紋で「桐紋」とは異なる。
 
 
なので、神主系統とはだいぶ前に分家している。
 
 
ちなみに、ここから西に尾根谷伝いに繋がっている伊予切山の平家伝説に出てくる伊藤清左衛門さんは、熊野修験者。
 
 
伝説の中でも、熊野大権現を祈って行き先を示す光が差すシーンがあるように、神主でもある。
 
 
清左衛門国久さん末裔の家紋も同じ五三の桐紋で。。。※後に両家とも同じ丸に五三桐であることが判明。
 
 
やっぱりかなりの確率で、切山の伊藤清左衛門末裔本家の御一族とは、古い時代に繋がっていそうである。