こんにちわ。

 

今日午前、近くのダム湖で開かれたハーフマラソン走ってきました。

 

天気も良く、この1年の練習の成果か、去年より10分短縮、年齢別28位でした。気持ちいい~。

 

おまけに、最後の抽選会で、なんと”鳥取ズワイカニ食べ放題1泊2日ペアの旅券”が当選!

 

運気がいい日でしたが、足腰はパンパン、疲れマックスなので、

 

午後はブログ更新にいそしみます

 

 

ルーツ探しの続編です。

 

 

先祖探ししているうちに、何んでもいいから関係する情報が欲しくなり、本を読んだり、ネット検索したり。

 

 

そのひとつ、こんな本を読みました。

 

「ご先祖様、ただいま捜索中!あなたのルーツもたどれます」丸山学著

 

 

この本は結構参考になりました。

自身の仕事としての調査の経験から学んだ先祖調査のポイントが書かれています。

 

 

そこには、本籍地の歴史を知るということで、「日本地名大辞典」「日本歴史地名大系」は役に立つと書いてありました。

 

 

さっそく、中古書を調べて購入。

 

なんと新品だと、9400円もする本です。

 

 

これは中古で2000円で購入。

 

さっそく、「佐野」を検索。そのまま記入します。

 

「さの 佐野(池田町)

吉野川支流馬路川流域、北の雲辺寺山と南の峰畑山の山間に位置する。地名は佐野城に拠った赤松氏の末裔佐野氏にちなむという(池田町誌)。」

 

 

ふむふむ。。

 

 

「しかし地形からみて、おそらく山中の狭い平地をさす「狭野」からきたと思われる。

 

古代には東隣の馬路から地内字舟戸まで堰塞湖であったといわれ、地内中央部の高毛台地からは縄文土器・弥生土器を出土。

 

また高毛台地の南方には佐野氏の居城佐野城跡があり、巨石を積んだ城跡が残る。」

 

 

へー、高毛台地って、そんなに古くから人が住んでいたのか。。。今は台地の上には数軒の家屋と畑しかないんだが。

 

 

また、南には戦国時代に築城された佐野城があって。。。つまり、ここは戦国時代も要所だったということか。

 

 

ということはおそらく、その台地には数千年前から連綿と人は住んでいた。

 

 

平安時代までとは言わないが、いつの時代かに我がご先祖様が移り住んだとしても全く不思議ではない土地だ。

 

 

ちょっと飛躍しますが、伊藤氏という姓や切山平家伝説から考えると、その時代に平家の落人として住み着いたか、住み着いた人の分家が流れてきたというのは全く不思議ではありません。

 

 

しかも、佐野は、伊予、讃岐、阿波の街道が交わる地域で、高毛は戦国時代のお城があるような地区であり、さらには切山平家伝説でも安徳天皇を祖谷から切山にお連れする途中、必ず通る道筋でもあります。

 

 

ですので、源平合戦以降その地域で、讃岐や阿波からの源氏の追手の情報を収集するために、切山の修験者伊藤清左衛門の子孫の一部が住み着いたと考えても全く合点がいきます。

 

 

うわ、たったこれだけの情報で、いきなりいろいろ想像がつながる。まさにパズルのピース。

 

 

また、佐野村の江戸期の記載の中では、

 

 

 「佐野御番所・佐野御分一所が地内福田井に置かれ、讃岐・伊予からの通行を監視するとともに通行税を徴収した。

 

この役目には石川氏(もと佐野氏)を中心とし、馬路村の漆川氏と山城谷村の大熨が加勢した。以来当村は近隣の小宿場町的な位置を占め、江戸末期には、伊予との国境をなす境目峠に料亭や旅館ができていたという。」

 

とあります。やはり監視にはうってつけの地域だったのでしょう。

 

しかも、番所の役人は佐野城の城主の子孫が担当していたとのこと。

 

石川姓のご子孫と思われる家は高毛にはないのですが、そのふもとの伊予街道沿いや讃岐に向かう街道沿いに残っています。

 

そういえば、先日過去帳を拝見させていただいた駅路寺青色寺も監視が仕事の一つだったと郷土史に書いてありました。

 

 

勝手な推測にロマンを加えてます。

 

 

あ、そういえばもう一つ平家と佐野の関係がありました。

 

 

佐野から讃岐に抜けるためには曼荼羅峠を越えないといけません。

 

 

この曼荼羅峠の北側、香川県観音寺市大野原に抜ける県道(旧街道)に、五郷ダムというのがあるのですが、そこから東の山中に有木という集落があります。

 

ここは、平清盛の孫、平有盛が祖谷に落ち延びる途中にしばらく隠遁していたという伝説があり、地域には「上屋敷」「烏帽子屋敷」など武家にまつわる地名や、住民の9割の名字に”平口””平野””平野”など”平”がつくなど、平氏の足跡が今も残っています。実に33軒中28軒が平*さんです。以下は有木の住民の姓。

 

また、有木の里では、戦後しばらくまで、いくつかの風習が残っていたようです。そのうち、ふたつが、

 

・源氏の旗が白旗だから鶏やウサギなど白い家畜は飼わず、衣類や祭りの幟も白いものは避けて色物を使っていた

・有盛が小黍(こきび)の畑で討死したといわれることから里人は決して小黍を作らなかった

 

というようなもの。ここで生涯を閉じたという話でもなく、とくに創作する必要もなく、正史と違わない話ですので信ぴょう性があります。

 

ちなみにその大野原町有木から伊予切山につながる山中県道沿いに大野原町五郷田野々という地区があります。ここにも、”藤川”とか”藤田”というのが最多数を占めていました。。。どちらも伊勢の藤原であった平氏の伊藤氏と同じく、平家の中の藤原氏の末裔が称した姓だと思われます。(現在はここ以外にも東みよし市の昼間という地区に藤川や藤田、藤本姓の方が多くいらっしゃいます)。以下は五郷田野々地区の姓の多い順。

 

 

有木地区は香川県(讃岐)観音寺市ではありますが、佐野高毛地区から、直線距離でたった3kmも無い地区です。

五号田野々はそこから、切山に向かう県道沿いでこれも有木から直線3kmほど。

 

おそらく、切山、有木や田野々、三好市(祖谷他)とこの佐野界隈は、平安時代末期、源平屋島の合戦の前後で落ち延びた平氏が山、谷をかき分けて隠れ住んだ地域であることは事実のようです。

 

 

平家落人、源氏の追手の監視 ⇔ 伊予、讃岐からの通行人の監視(佐野、高毛界隈)

 

 

伊藤家と全く関係はないかもしれませんが、事実、この要所が佐野伊藤家の本家であり、今は数軒の伊藤家しかいない。

また、事実、源平の時代以降、戦国時代や江戸時代を通して交通、人の出入りの監視の要所であった。

 

普通、何か関係があってもおかしくありません。。。

 

 

うーん、これ以上、この推論の証拠探しは難しいなあと思うんですがあまりにも状況証拠が多すぎる。