神道が熱い。みうらじゅんではないが、マイブーム到来である。


半年ほど前から神道についての書籍を読む機会が増えている。なぜいまさら神道なのかと改めて考えてみたのだけど、どうも、僕にとって著しい興味の対象は、特に、「神社」であるようだ。


自分はヨーガや瞑想を行うようになって7年ほど立つのだが、奇妙なことに昨年あたりから神社や仏閣に足を踏み入れると、両手が重くなったり、場合によっては手にばりっとした(静電気のような)感覚があったりと、身体的な反応がおこったりする。そのことがとても興味深くて、さまざまな神社に足を運ぶ機会がふえている。


年明けからかなりの数の神社を訪ね歩いていて、それにつれて神道関係の書物もよむようになったのだが、そういった本を読むごとに、神道の持つ“しっくりくる感じ”が強まっているような気がする。どういうことかというと、戒律のなさ、自然崇拝、祖霊崇拝というのが、どうにもキリスト教やイスラームや、道教、仏教以上に、自分にフィットしているようなのだ。


仏教は突き詰めれば、宗教というよりも心理学をベースにした心身の変革を行うメソッドであるし、キリスト教やイスラームのベースとなったユダヤ教は、発祥の経緯として民族の結束のために生まれた政策的な宗教な訳で、神道は、こういった宗教と違って非常にシンプルな自然や祖先への畏敬のこころを反映しているところが、なんだかしっくりくるのかも知れない。


現在の神道は、・伊勢信仰・自然信仰・祖霊信仰から成り立っているとされているんだけど、そのうち伊勢信仰っていうのは、大和朝廷が大化の改新後に律令国家に生まれ変わる過程で、天皇家と他の豪族との決別のために政策的に導入された経緯があるので、人工的なニオイが漂うのだけど、過去には、プレ伊勢信仰というか、自然信仰や祖霊信仰のみのもっと素朴な信仰があった頃の神道の姿があったはずで、盤座や神木など、そういった信仰の名残を感じさせる神社などは、とても気持ちがいいし、心が洗われるような心地がする。(もちろん、伊勢信仰の一大聖地である伊勢神宮だって、昔からの聖地を利用して創られているのだろうし、長年の祈りの蓄積によって大きなパワーを獲得していることはとても素晴らしいことで、決して天孫族系の神社が好きではないっていう意味ではないです。)


日本のカミというのが、とても生命的なところも心惹かれるところ。生命的っていうのは、カミは正義を持って君臨する存在ではなく、世の中に豊穣をもたらす側面(和魂)と、世の中に害悪をもたらす可能性のある、荒ぶる側面(荒魂)の両方をもっていて、良い悪い、有害無害という2元論では割り切らず、2つの側面が人為を超えていろいろな現れ方をするというところがとても生き物ってぽい、自然っぽいってことです。


豊穣な多様性とでもいうべき日本各地の聖地で、その場特有のエネルギーのようなものに触れることが楽しいので、しばらくは神社めぐりにはまりそうな予感がします。

禅とヨーガについて考えるきっかけになればと、知人が参禅の記録を送ってきてくれた。なかなか詳細なもので、すばらしく貴重な資料である。知人は、自分がヨーガをやっていることをよく知っている。そこで、せっかくの機会なので、知人の参禅の記録を元に、座禅とヨーガの接点、また座禅と僕が実践している瞑想との接点について考えてみた。


伝統的なヨーガと禅は近いものがあるんだけど、禅はヨーギーでもあったゴーダマが、ヨーガでは満足できずに、更に修行を進めた結果の産物(いわば進化版ヨーガ)なので、人生の苦を取り除くという意味では、禅のほうがアプローチとして優れていると思います。


そして、ゴーダマの残した教えは、禅をはじめさまざまに”自分がオリジンだ”という流派を生み出しているけど、禅は同様にオリジンを主張するヴィッパサナ瞑想とかとアプローチが近い感じがします。じゃあ、ヴィッパサナと禅の接点は?ということになると、まず、両者は「今にとどまる」っていうことを目指す点で共通する側面がある。ただ、今回参禅の記録を読んでみて、禅よりもヴィッパサナの方が、カリキュラムとしてのアウトラインが見えやすくはあるかなと思いました。


ヴィッパサナでは、サマタ瞑想によってサマディを体験し集中力を養ってから、ヴィッパサナ瞑想によって想念を片っ端から捨てて行き、最終的に今にとどまれるようにするというやり方をするんだけど、禅の場合は、座るっていうことが今にとどまる上でどんな意味があるのかについては、明かされないので、非常に指導の先が見えにくいような気がします。(例えば、指導者のことばに”悟った後も座る意味がある”という発言があったんですが、悟ってしまえば普通に生活してても今にとどまれなければおかしいはずでわざわざ座る必要はなくなるのでは。 でも、そういった疑問に対して、”意味がないから座るんだ”というのは回答になっていないかと。 それは「座る」ということに、逆にこだわっている、ということに僕には感じられるのです。)どちらも優劣はないのだけど、禅の場合は、自分が修行においてどこにいるのかが分かりにくいし、いきなり「今にとどまる」というゴールにアプローチするため、結果的にとても難易度が高い印象があります。


「不立文字」に対して、なんとかギリギリまで構造化して論理の世界でも迫ってみようというインドの文化と、結局論理が通じないゴールを目指すのならば、論理はある程度ゆるくてもいい、最終的にゴールにたどりつけばいいんだから、という中国・日本の文化の違いなのかな、なんて思ってみたりもしています。


あと、僕が気になったのは、禅における「座る」という行為の意味です。禅の指導者は”座ることに意味はない”っていうことを言っているけれども、やはり意味がないわけがない。座ることによって、なにかしらの心身の変容があるはず。(そういった変容の体験を、ヨーガや瞑想を通じて自分は実際にしてきました。)あくまで、僕の仮説ですが、”意味はない”といっているのは、テクニカルな意味で使っているのではないでしょうか。意味を求めて(ことばやイメージを強く働かせる形で、といってもいいかもしれない)、座っても瞑想は決して深まらない訳ですから(これは僕も体験済みです。)、師匠が”座ることには意味や役割がある”ということを弟子に言ってしまうと、弟子は意味や役割を求めて(ことばやイメージを働かせて)座ってしまう。それを避けるには、”そもそも座ることに意味はない”といったほうが、結果的に弟子はイメージにまどわされる危険が減るので結果的に深い境涯に行き着く、ということではないのでしょうか?瞑想において、観念や意味を求めつつ座ることは命取りで、僕自身そういう体験をしているので、そんな印象をもちました。つまり、”座ることに意味はある、ただ、座るときに意味を求めると本来の狙いから遠ざかる、”ということだと思っています。


禅が、座ることに何を期待しているのかというのは、気になるところです。

ひさしぶりに友人との飲み。うわさに聞く、酒飲みの聖地、東京の東の横綱、京成立石へ。


まずは、もつ焼き「うちだ」。

すすけた壁にかけられた年季の入ったメニュー。驚くのは、圧倒的なコスパ。なんと、もつ焼き(2串)・もつ煮が170円均一。コンビニで下準備として買ったウコンのチカラ(200円)よりも安い。で、もつ煮・もつ焼き・おしんこは共通価格。もつとおしんこが同じ値段なんで、ぱっと見、「おしんこ、ちょっと高くない?」という印象を受けるが、よくよく考えれば、おしんことしては、決して高くはない金額。本当は、もつ焼き・もつ煮が異常に安すぎるので、相対的に高く見えるだけ。うちだマジックによる錯覚ということか。「もつ焼き」というメニューも一筋縄にはいかない。、「も・つ・焼・き」という4文字の中に、3軸で語られる豊穣な空間が広がっており、この注文には「部位×味付け×焼き加減」という3要素の指定が必須なのだ。常連の導きに従い注文した「レバー・たれ・普通焼き」は絶品だった。ぜひ通い詰め、3要素についての完璧なる指定を身に付けたいもの。今回の「うち入り」(常連はこういうらしい)におけるヒットは、酢であえた生レバー。猛暑にもかかわらず臆せず生肉を供するその強気な姿勢にも、名店のプライドをみる。これが200円以下とは信じがたい。その日の仕入れを、その日に売り切るというスタイルがこの鮮度と値段を可能にしているのだろうか。


次は、鳥房。

スペシャリテは、鳥の丸揚げ。その雄姿が目に飛び込んでくる刹那、幼き日々に胸を躍らせた町内会のクリスマスパーティーの懐かしい記憶を思い起こした。鳥が丸々と揚げられた光景には、ハレの気分というか、今日は特別だという高揚感というか、とにもかくにも、わくわくしてしまう。フレンチや懐石を食する贅沢さもいいけれど、肩肘の張らない贅沢さ、というか、つつましさの伴った贅沢さのようなものを大事にしたいものである。肝心の鳥は、あまりの丸揚げっぷりに、どこから手をつけるべきか戸惑う。そこは店員のおばちゃんが慣れたもので、てきぱきと指導してくれる。おばちゃんの解体技術によって、打ち砕かれた、鳥の肉片を食す。面白いのは、タイミングごとに食べるべき部位があって例えば、鳥の頭の部分や背骨の部分は、速攻に食することを命ぜられる。その後、ようやく、手羽やももなどの、いわゆる「肉」の部位に移るのだ。外はパリッと、中はジューシーでホクホクとした鳥を、意地汚く指を使ってパクパクと食べる。あっという間に食べ終わり、飲み代を入れてお代は1000円強。至福であった。


その後、うちだの奥にあった、おでんや(名称失念)に行き、グラスに日本酒を2杯飲み、シメに訪れたのは、蘭州。


ビールと一緒に、水餃子1枚と焼き餃子1枚を注文。予想していたよりも小ぶりだが、ニクニクしい餃子ではなく、あっさり目の味。皮とあんのバランスもよく、つるりと食べてしまう。この店が立石におけるシメの名店として評価されるのも頷ける。気になったのは「香菜ラーメン」ここに辿り着くまでの過程でお腹が膨れ、残念ながら注文はできなかったが、次回の楽しみとする。


「この街はテーマパークだな」と友人。のんべえたちを魅惑してやまないアトラクション(名店)たちがあって、そこで、人々は、日常を忘れ、自分を解放する。そこに長蛇の列を作ることも辞さない感じもよく似ている。ディズニーランドと違うのは、そこにリアルな人の息づきとコミュニケーションが存在している点か。


立石は、のんべえのためのディープなテーマパーク、である。