今回の巡礼の旅は、北口本宮富士浅間神社、富士山本宮浅間大社、山宮浅間神社、富知神社、大瀬崎をめぐる旅だったんですが、特筆すべき神社として北口本宮浅間神社と山宮浅間神社を取り上げたいと思います。



北口本宮富士浅間神社

早朝430に東京を出て、北口本宮浅間神社に到着したのは630頃。大杉が鬱蒼と立ち並ぶ参道に霧雨が煙り、人影もほとんどない。ほの暗い参道には、濃密な雰囲気が漂っている。冷ややかでしっとりとした空気の感触を味わいながら参道を歩くと、ジーンと痺れるような感覚が両手を捕らえ始めた。境内を横切る小川の水量は豊富で澄み切っている。その清らかさに両手を浸し、禊いだ。巨大な鳥居と楼門をくぐり、境内に入ると左手に太郎杉。クラーケンの触手のような太い根っこをうねるようにして大地に食い込ませ、何本もの腕を操り曇天を掴み取ろうかとするように巨大な枝々を天に打ち広げている。圧倒される。正面の拝殿は神寂び、威厳に満ちた佇まい。古くから崇敬を受け、この地に鎮まってきたことをうかがわせる。拝殿の階段を登り見上げれば、梁に飾られた天狗の面がじろりと参拝者を睨み、この地が富士山修験の聖地であることを再認識させる。痺れるような両手の感覚は変わらず続く。この地に鎮まる富士大神のパワーなのか。



山宮浅間神社

里宮である富士山本宮浅間大社を参拝後、クルマで新五合目に通じる道を30分ほど登り到着。ぽつぽつと雨が降りだす中、クルマを降り、石の灯篭が立ち並ぶ杉並木の参道を進み、楼門にたどり着く。楼門の前にある看板に神社の由緒がかかれ、ここが、富士山本宮浅間大社の元宮であることが書かれている。看板を読んでいて、ふと、体がむずむずとするような感覚に襲われていることに気がつく。行き場がなく落ち着かない筋肉たちが、開放を求めてうごめくような感覚。楼門からは、まっすぐに道が伸び、奥に階段が見え、階段の登りきった場所に祭壇が見える。曇天の中でも祭壇の背後に見える空には明るさが伴っている。楼閣をくぐり、畏る畏る歩を進める。階段を一歩一歩噛み締めるように上がり、ようやく祭壇にたどり着く。囲いに覆われた祭壇の奥には、磐座と神木。何かがいる気配。神が”鎮まる”、という言葉がある。荒々しい神を特定のエリアに鎮め、そこに神が鎮まり、圧縮された神気がその地に漂う。しかし、ここの神は”鎮まる”という言葉では説明ができない有様をしている。ここの神は、むき出しでそこに“ある”。人為を超えた神の荒々しい姿、過去幾度も噴火を繰り返し、鎮めることができない荒ぶる富士大神。その野放図なエネルギーがその場に拡散していくかのような姿。畏れがカラダを満たし、ひたすらに祈りが己の中心から湧き出る。ここから祈りをこめ富士を遥拝した古代人の魂がのりうつってしまったかのようだ。畏き聖地。

ペニンシュラでマクロビディナーを食べる。マクロビ料理が格別好きだというわけではないのだけれど、彼女がお試しチケットをもっていたので、トライアル気分でペニンシュラのコンチネンタルダイニング「ロビー」に向かった。「ロビー」はまさにペニンシュラのロビー内にあって、宵闇の迫る時刻に到着すると、待ち合わせのカップル、銀座に繰り出そうとする中国人、明らかによこしまな関係に見える年の差カップル、とさまざまな人々がたむろしている。天井の高いロビーに響き渡るジャズの音圧が、予想以上に高く、なかなか良い音響だなと感心。が、ふと上を見上げるとホールの端にある小さなテラスで実は生演奏中であることが判明。おそらくは角度によっては気がつかない客もいるかもしれない。プレゼンテーションとしていかがなものか。それはさておき、肝心の今回ペニンシュラでサーブされるマクロビ料理は、マドンナのシェフを勤めていたという西邨マユミさんが監修しているとのことで、ある意味今最もうまいとされるマクロビ料理を食べることができるという機会でもあるので楽しみであった。で、味のほうは、なるほどというか、やはりというか、どうしても動物性の油を使用しなかったり砂糖を使用しないためインパクトに欠けるというのは事実で、舌の味覚を「攻めモード」にしておかないと、ぼんやりした料理だな、という印象もつ人も多いかもしれない。素材の味をしっかりと味わおうとすれば、味わい深さはそこにあるわけで、食べ手に普段とは違った味わい方を求める料理だと思う。4品でたが、印象に残ったのはスープとデザート。まずは、はと麦と芽キャベツ入りグリーンピーススープ。コクも甘さもちょうど良いし、あっさりしていてうまい。(メインのスズキも旨かったけれどこれはマクロビならではの味ということではなく素材自体がよかったのだろうし、調理法としても塩を振ったシンプルでオーソドックスな調理だったと思う。)また、デザートの豆腐のチョコレートムース、オレンジの寒天ゼリーは、一見生クリームや砂糖を使用していないものとはおもわれない豪華な佇まいなのに、味のほうはサッパリとしていて食べやすく、これは自分的にはありがたかった。完食後の感覚としては、とても胃袋が軽く体はラクであるのだが、食事として物足りない感はいなめないという印象。食の楽しみという側面で更なる進化を追求してほしいところ。マクロビやらホールフードやら、古くは精進料理から連綿と続くいわゆる”オルタナ食”とでも言うべきさまざまな食分野は、”健康増進”という至上命題のために味覚という食の味わい自体を犠牲にしがちなのだけれども、近年発達が著しい分野であるのも事実。個人的には、精進料理でいう総持院、薬膳中華でいうと龍口酒家、みたいな攻めの姿勢のオルタナ食をさまざまトライしていきたいところ。



その後ロックフィッシュで、ハイボールを飲む。水滴のついたグラスに氷の入っていないハイボール。とても涼やかな味わいがする。店の古本をパラパラ見ながら、コンビーフサンドイッチをつまむ。スナック感が際立つカリカリのパンに挟まれたねっとりとしたコンビーフは、ハイボールと相性がいい。個人的には、かねますのハイボールが一番だと思っているが、伝統の中で頂くこのハイボールは単なる味を越えた価値があるように思える。2杯だけ飲んで退散。

古事記を読んでいてふと思ったんだけど、どうしてこう古事記のヒーローたちは、揃いも揃って危機に陥ると女性に助けられるのだろうか。オオクニヌシもヤマトタケルもみんなそう。特に、古事記の出雲神話にでてくるオオクニヌシは人生のステージが上がっていくたびに名前を変えていくのだけど(オホナムチ→ヤチホコ→アシハラシコノオ→オオクニヌシ→)、その出世魚のような姿を見ていると、ああこれって、島耕作のプロトタイプなんじゃないか、とついつい思ってしまうんだよね。女性に助けられ困難を乗り越えていって、結果的にどんどん出世していく。みたいな。いろんな女性に手を出しまくるっていうところもソックリで、「女性にモテまくって、その助けを借りてライバルに打ち勝って、出世していきたい、」っていう、「古事記→島耕作」という時間を超えて古代から綿々と受け継がれる日本男児の切なる願いが読み取れるような気がする。ギリシャ神話のゼウスなんかも浮気とかしまくりですが、女性の助けで困難に打ち勝つっていう構図はなくって、どっちかっていうと、実は神さま・英雄の誕生の由来だったり、英雄たちのストーリーが始まるきっかけだったりするわけで、女性はあくまでストーリーの始まりに配置されているケースが多い。しかも、ゼウスの場合、結構一方的に“気がついたら関係を持っていた”的な圧倒的な存在による一方的なテロリズムがあったりして、そこら辺は、既に地位を確立しているゼウスと、これからのし上がるオオクニヌシでは大分違ってくるのだろう。


古来より、女性の助けなくして男性の出世はない、ということなのか、女性を敵に回していけません、ということなのか、いずれにしても、古代人の知恵がそこにはあるんでしょう。そんな心持ちがしてきます。