● Kz-1灰皿、Kz-2灰皿、ネット灰皿⇒この3つの灰皿にはまだ発表していない大きな共通点があります。

この共通点を辿れば製造の意図が判明するのだと思いますので、現在継続調査中です。

 よく変わった模様の円盤(小型UFOとも言われる)だから不思議だと言われますが、それはUFOの類いという先入観があるからで、

灰皿と考えれば別に何の不思議もありません。ただの縁起柄の”青海波に千鳥”を表した灰皿です。大きさも重量も機能性も全て灰皿の条件に当てはまります。

そしてこの3つの灰皿には他に重要な共通点もあり、正に”灰皿の条件”にぴったり当てはまります。

 それでは介良円盤もその重要な条件に当てはまり、4つ共同様な共通点があるかと言うと、誰もそれは見ていない、あるいは見られなかったので不明です。

しかし私の予想では、介良の円盤が灰皿であるという最後の駄目押しの決め手になった証拠があると考えています。

残念ながら今はその確認ができません。

 

 

『このサイトをご覧になっている方へ』

 *介良事件で捕獲されたのは間違いなく”灰皿”だとして、その目撃者、当事者の語る話が信用できるとしたら、その先はどの様な結論を皆さんは考えるでしょうか?  何故灰皿が自分の意思で飛んだり消えたりするのか?内部に小さな宇宙人が乗っていて操縦しているとか、ドローンの様に外部からコントロールされているとか色々な思考があると思います。

仮説を立ててください、科学の発展は仮説の積み重ねです。

 

 【*米海軍公認のUAP接近遭遇事件も、2004年空母ニミッツから発進したF-18スーパーホーネットの司令官が、その報告書でAAVは自身を”覆い隠すことができ、肉眼では視覚的に見えなくなった”と記述しています。】

https://ameblo.jp/kz0222/entry-12530838464.html?frm=theme

 

 何故地球外知的生命体がそんなことをするのかと言う常識論は、”UFO現象の研究”には御法度です。彼らは今日に至るまで、我々が理解できないことをしています。我々の常識で彼らの行動を判断してはいけませんし、研究者のとる態度ではありません。

 

 いや!悪までも中学生達(一部大人もいます)の嘘・デッチあげだと自分の考えに固執する方もいるでしょう。その方が多勢でしょうし、世間的には常識的に思えます。

灰皿が飛んでいるなんて言ったら笑われるでしょう。それが一番単純で簡単な結論ですから。何もしない人に限って揶揄している方がいますから無視しましょう、関わらないことが一番です。

 

 どうぞ、その”灰皿をUFOに見せかけて仕掛けられたイタズラだ!9人の目撃者はグルになって嘘をついているんだ!”という証明に努力して下さい。

当事者もまだ健在です。やたら”ペテン師”呼ばわりして、立派に社会生活されている当事者の人格を否定する様な事は避けなければなりません。それなりの覚悟と裏付けをした上で自分の本名と所属を名乗り発言するなり、書籍を含めたメディアに乗せるのが公平と言うものです。

 机上の空論では無くフィールドワークに基づく調査をして、この”日本の2大UFO事件”と言われる”介良事件”を解明して下さい。

 

 私はある筋からこの事件は本物だ!と実感する傍証を得ています、何れお話しする機会があるかも知れませんが、今はまだ約束があるので話せません。皆さんがどう考えるかは勿論自由です、どんどん外部に発表して下さい、ある程度の裏付けのある建設的な意見を!本名と所属を名乗って!

 

 

 

 

画像は©著作権があります。

Kz-2灰皿とKz-1灰皿⇒Kz-2灰皿が介良円盤にぴったりの形状です。

 

 

 

 

左がKz-2灰皿(介良の円盤にそっくり)、右はKz-1灰皿(ツバの模様と内蓋の模様が違う)

 

 

 

 

 

 

ネットに現れた、通称”ネット灰皿”⇒サイズ等は不明。(所有者不明)

 

 

 

介良円盤のレプリカと言えば、JSPS大阪支部林支部長の製作した物が有名で先駆者でした。その功績は大きいと思います。

その後、それの真似をした介良円盤レプリカがあちこちで作られています。出来の良し悪しは予算の関係もあるでしょうが、皆、林レプリカを参考にしていると思います。

 しかし、林レプリカは目撃者の記憶、記録を正確に反映したものではありません。形状は別として、色が違います

その後のレプリカを作られた方は皆同じ間違いを踏襲しています。

いや!書籍には銀色と書いてあると言うでしょうが、そこはただ文献を読んだだけの方の思考です。

今までの調査ではっきりしていますが、銀色だけではありません他にも色々不思議な特性が今になって問題になっています。

再発見というのでしょうか、当時の調査ではまだまだ不十分だったと思います。

その辺りはまたJSPSの機関誌等に寄稿されるでしょう。

 

 

基本となった林モデル、その功績は大きい。

 

 

 

 

林モデル

 

 

 

 

 なんせ当時1972年は民間の研究会はあっても、プロのライターは南山先生くらいで、勿論フルタイムで活動できる人はいません。

JSPSも発足は翌年の1973年です。しかも、インターネットも電子メールもデジカメ・携帯電話すら無い頃です。

吉幾三の、”俺ら東京さ行くだ”という名曲に、”テレビもねぇ、ラジオもねぇ、自動車もそれ程走ってネェ・・・”という歌詞がありましたが、UFO現地調査のツールもフィルム・カメラとテープレコーダー位でしたね。

 民間の研究会も関西方面は高梨会長の近代宇宙旅行協会、それに次ぐ日本UFO研究会ですが、実働部隊はいません。

研究家と言っても自称のアマチュアで、皆、会社員として勤めながら日曜日に調査に行き、月曜日にはまた会社という予算も時間も無い時代で頑張ってましたね。

 

 

*その6.に続く・・・・・・・

 

 

Kz.UFO現象調査会