前回〝トーキー宣言〟のことを書いた。映画がサイレントからトーキーに変わった1928年、ソ連の3大監督であるエイゼンシュテイン、プドフキン、アレクサンドロフは、「映画の音を有効に使うには、音と映像を非同時的に使うべきだ」と、いち早く提唱した。

 

 音と映像をあえてシンクロさせないで使う例を、前回説明したのだが、実はこのアイディアは、映像と音楽の関係においても成り立つ。それを積極的に実践したのが、黒澤明だった。

 

 「映像と音楽の関係は〝映像プラス音楽〟ではなく、〝映像かける音楽〟でなくてはならない」。これは黒澤が映画音楽を語る時、繰り返し述べたキーワードのような言葉である。その信念を、具体的に実践したの三船敏郎と最初の出会いとなった「酔いどれ天使」(1948年)においてった。

 

 肺病病みのヤクザ(三船)が、親分に裏切られ、失意と絶望のうちに闇市をさまよい歩く。この哀しみのにじみ出るようなシーンに、黒澤は町の拡声器から、陽気で活発な「カッコウ・ワルツ」を流したのだ。

 

 普通ならば、哀しいシーンには哀しい音楽、楽しいシーンには楽しい音楽というように、場面の雰囲気を高めるために、BGM風流すのが通例である。ところが黒澤は全く逆の、明るく陽気な音楽を使用したの。つまり、画面を説明し、装飾し、なぞっていくような前者の音楽の入れ方を〝映像プラス音楽〟、逆に場面の雰囲気とは正反対の音楽をぶつけることによって、かえってその場面の感情を増幅させる後者の方法を〝映像かける音楽〟というのである

 

 こうした掛け算ともいうべき音楽の入れ方を〝対位法(コントラプンクト)〟と呼んでいる。対位法とは、もともとバッハが確立した音楽技法のことで、異なったメロディーを同時進行させる作曲技術を意味する。黒澤はこれを映画に応用し、全く違った映像と音楽を衝突させることによって、強烈な印象を作り上げたのだ。

 

 「酔いどれ天使」で、その効果に自信を深めた黒澤は、対位法の手法を、続く「野良犬」(49年)の緊迫したシーンで、つるべ打ちのように何度も行っている。どしゃ降りの夜、犯人のいるホテルから佐藤刑事(志村喬)は電話をかける。2階から降りてくる犯人(木村功)…。その緊迫した瞬間、フロント係の女がラジオのスイッチを入れる。そこから流れ出すけだるい南国風の「ラ・パロマ」の音楽。

 

 有名なのはラスト近く、朝もやのかかる雑木林で、村上刑事(三船)と犯人が対峙する。緊張感が高まった瞬間…聞こえてくるのは、のどかなピアノ曲「ソナチネ」。また泥だらけになって草むらになだれこんだ2人の側を、子供たちが童謡「蝶々」を歌いながら横切っていく。映像は壮絶ななのだが、それを包む雰囲気はあくまで平和的、というパラドックスなのだ。

 

 「天国と地獄」(63年)では、誘拐犯人(山崎努)が初めて登場するシーンで、対位法を用いている。彼が汚いドブ川沿いを歩く映像に、シューベルトの清らかな「鱒」が、あるいは逮捕されるシーンに、明朗なイタリア民謡「オーソレ・ミオ」が、ラジオから流れてくる。

 

 黒澤は「対位法を使う場合は、音楽が町の拡声器やラジオなどから聞こえてくる現実音として使うことがコツ」と語っている。対位法の演出は、音楽と映像がスクリーンの中で大胆にからみ合う、黒澤映画の独壇場である。