女優の久我美子が、9日に逝去された。共同通信社から依頼された追悼の拙文は、20日付の本紙に掲載されたが、そこでは書けなかったローカルなエピソードを、本欄で紹介しておこう。

 

 それは、1957年9月に佐賀で大ロケされた「張込み」(翌年1月に公開)のことである。原作は松本清張。東京で起きた質屋殺しの犯人(田村高廣)を追って、2人の刑事(宮口精二、大木実)が佐賀市にやって来る。その1週間のサスペンスを描く日本映画史に残る傑作である。

 

 監督の野村芳太郎一行は、57年7月31日に、佐賀市にロケハンに来た。翌日の佐賀新聞には、野村監督の談話として、次の言葉が掲載されている。「この〝張り込み(ママ)〟という映画は佐田啓二扮する殺人犯が佐賀市にいる恋人(久我美子予定)に逢いにくるというストーリーだ」。

 

 この記事によれば、初期の段階では犯人役に佐田啓二、恋人役に久我美子が予定されていた。ところが東京でクランク・インしたことを知らせる8月24日の記事では、佐田啓二が田村高廣に変更されている。これは時代劇で不評だった田村を、現代劇で売り出したいとする会社側の意向が反映されていたのではないか。

 

 そして9月6日、撮影隊が佐賀に乗り込むギリギリ直前になって、「主演女優に『デコちゃん』」という大見出しの文字が、佐賀新聞の紙面を飾った。「久我美子にかわり高峰秀子が出演することに正式決定」とある。

 

 変更の理由は何だろう? 私は後になって、野村監督や大木実に直接聞いてみた。すると久我の健康問題ではなく、どうやらスケジュールの都合らしいのだ。

 

 もともと東宝の女優だった久我は、54年からフリーとなり、各社を渡り歩いた。特に57年は五所平之助監督の「黄色いからす」と「挽歌」に連続出演している。特に後者は大ヒットし、各社が彼女を使いたかったはずである。「松竹が独占するのはずるい」という声も聞こえてきそうだ。そんな他社への遠慮もあって、久我の「張込み」出演は見送られたのかもしれない。

 

 しかし久我にとって、「張込み」の仕事を受けなかったのは正解だった。なぜなら、「張込み」の撮影は、結果的に延びに延びたからだ。久我は、「張込み」をはさんで、東宝の正続「柳生武芸帳」(57年、58年)に、竜造寺家の遺児・夕姫として出演している。もし「張込み」に出ていれば、久我の続編への出演は危うくなっていたに違いない。

 

 あるいは、もう少しうがった見方をすれば、野村監督は「張込み」に関しては、粘りに粘り、スケジュールが遅くなることを分かってやっていた節がある。つまり確信犯。そのために他社に迷惑がかかるなら、スケジュールの過密な久我は、最初から外しておこうと考えたのではなかろうか。 

 

 そのために野村監督は、久我に対して一つの〝借り〟ができたことになる。だからこそ、野村の清張映画第2作となる「ゼロの焦点」(61年)では、久我を主役に抜擢したのではないだろうか。この映画のラスト、久我が断崖絶壁で犯人と対峙する名シーンは、その後のテレビ・サスペンスドラマに絶大な影響を与えた。

 

 久我美子の訃報に接し、彼女が出演したかもしれない、まぼろしの「張込み」に思いを馳せた。