昨年の暮れ、脚本家の山田太一が逝去した。彼の代表作は何だろう?と仲間うちで話題になったが、『岸辺のアルバム』をあげる人が多かった。あいにく1977年にTBSで放映された時、私は海外に居たために、一度も見たことがなかった。すると、友人の一人がDVDを貸してくれて、正月に15話すべてを初見できた。

 

 清純派の八千草薫に浮気する主婦の役を与え、ハッピーエンドで終わるそれまでのホームドラマを覆し、〝革命的〟とも言われたそうだ。確かにその点は面白かったが、一つ気になることがあった。それは息子の国広富之が、家族一人ずつの罪状を延々と述べ、弾劾し始めたことだ。

 

 何でこんなに、テーマを言葉で説明するのだろう? 考えれば、山田太一が書いたNHKの『男たちの旅路』も、戦中派の鶴田浩二と若者の代表・水谷豊が、声を荒げて論争する。なにしろ説明が多いのだ。そこで私は親友のシナリオ・ライターKに、その点を聞いてみた。彼はTBSのドラマも書いている。すると、こんな答えを得た。

 

 「山田さんの脚本はそれが特徴的なんだ。それ以上に台詞が長いのが橋田寿賀子さん。彼女は、主婦が台所仕事をしながら映像を見なくても、ストーリーが理解できるように、台詞で延々と説明する」

 

 なるほど、テレビとは、映像がなくても台詞で分からせようとする媒体だということを思い知った。音を消して見れば、ストーリーは何が何だか分からなくなるだろう。

 

 ところが、『岸辺のアルバム』の直後に見たのが、ヴィム・ヴェンダーズ監督の最新作「PERFECT DAYS」。本当に台詞が少ない。映像だけで語って来る。毎日、お勤めのように、公衆トイレを掃除する平山(役所広司)の前に、妹(麻生祐未)が突如現れる。父の容体が悪いようだが、映画は、それ以上は描かない。下手な監督だったら、そこにフラッシュ・バックを入れて、過去に何があったかを説明するだろう。

 

 「用心棒」(1961年)の桑畑三十郎(三船敏郎)の素性や、「天国と地獄」(63年)の犯人(山崎努)の生い立ちをもっと描くべきだと書いたバカな批評家もいた。それに対し、監督の黒澤明は「ヌッと出てくるからいいんだよ」と言い切った。過去を描き過ぎるとハードボイルドにならないのである。

 

 元来、日本の美の特徴は、すべてを描かず、想像力を喚起させる〝間(ま)〟や〝余白〟を設けることによって、精神性を築くことにあった。床の間、水墨画、能、一音の音楽…そして小津安二郎の映画がまさにそうである。彼を敬愛するヴェンダーズがその影響を受けていることは明白だろう。最後に小咄を一つ。

 

 アメリカの観光団が、京都の料亭に来て、3万円の懐石料理フルコースを食べた。大きな皿に料理がポツンと乗っている。それをペロリと平らげた太った一人が、仲居さんに言った。「エクスキューズ・ミイ。ここの空いている部分の料理が、まだ来てません」

 

 物量の文化の行きつく果ては、かくのごとしなのである。