壇上でゴジラ論を語る大森一樹監督(右)と筆者(1991年9月23日古湯映画祭にて)

 

 大森一樹監督が、12日、急性骨髄性白血病のため、兵庫県西宮市内の病院で死去した。70歳だった。彼は年賀状を必ずくれていたが、今年だけは届かなかった。私は彼の丸っこい字が好きだった。

 

 あえて大森と呼ばせていただくが、大森とは映画を通じての仲間であり同志だった。私がパリから帰国した直後の1979年、週刊誌「漫画アクション」の連載記事『青春大上段』を書くために、月に2度、東京から大森が住む京都を訪れた。その時彼は、まだ京都府立医大に通う学生だった。

 

 8ミリ映画を製作していた彼は、在学中の77年に、脚本コンクール城戸賞に「オレンジロード急行」を書いて受賞。その作品をメジャーの松竹に乗り込んで、翌年映画化し、25歳の学生監督として騒がれていた。週刊誌の編集者は、若者の代表として、彼に人生相談をやらせようと企画したのだ。私は彼に質問をぶつけ、大森はそれに口頭で答え、その内容を原稿化するというのが私の役割だった。

 

 ある時、大森は生原稿を私に渡した。「新しく書いたシナリオやが、忌憚のない意見を言ってくれへんか」と言う。私は一日で読んだ。「あなたの学生時代の苦悩がにじみ出た最高傑作だ。しかしラストが、『アメリカン・グラフィティ』(73年)の真似なので、これは止めた方がいい」と進言した。大森は「いや、これをやりたいんや」と答えて、変更することをためらわなかった。

 

 シナリオのタイトルは「ヒポクラテスたち」。医学生たちを爽やかに描いた自伝的な青春グラフィティで、80年にATGで映画化された。週刊誌の連載は、撮影に入るので、そこで中止された。映画は「キネマ旬報」のベストテン3位にランクされ、今でも大森の最高傑作として評価が高い。

 

 その後、大森はゴジラ映画の脚本を書き、監督もやるようになった。そんな因縁があったので、私は91年に行われた第8回古湯映画祭の参加を大森に要請した。最も古い第1作「ゴジラ」(54年)の監督と、最も新しい「ゴジラVSビオランテ」(89年)の監督を古湯で会合させるというのが企画の狙いだった。

 

 大森は本多猪四郎監督に初めて会えるというので、喜んで来佐した。夫人の聖子さんと、長女の美季ちゃんも同伴であった。ちなみにこの時、まだ無名だった「シン・ゴジラ」(2016年)の樋口真嗣特撮監督も、生(なま)本多を見たいと会場を訪れている。

 

 その後大森は2006年、大阪芸術大学芸術学部映像学科長に就任。先生になって、後輩の育成に勤しんだ。サガテレビでADやD(演出)をしていたS氏は大森の教え子である。

 

 大森とは方向は違ったが、青春時代、映画という目標に向かってガムシャラに働いた同志のような気がする。大森の死によって、わが青春の思い出も消えた。無念である。