山田洋次監督の最新作「キネマの神様」がようやく公開された。原作は原田マハの同名小説。若い頃は松竹撮影所(実名で出て来る)で働き、映画に夢を抱いたが、現在はアルコールとギャンブルで、借金まみれになっているゴウが主人公だ。

 

   最初、このゴウ役には志村けんが予定されていた。ところが彼がコロナによって死亡したために、沢田研二ことジュリーが代役に立った。このジュリーの起用の是非が、作品の評価を分けるだろう。ジュリー・ファンは別として、ゴウ夫婦があまりに枯れすぎているので、私などは妻・淑子を演じたのが宮本信子だと最初分からなかった。

 

   山田映画には共通したパターンがある。自分勝手に生きる主人公の男性が、周囲をハラハラさせるが、彼の良さを認めてくれる唯一の女性が存在し、その二人の心の交流が観客を泣かせるというパターンだ。「馬鹿まるだし」(1964年)のハナ肇と桑野みゆき、「男はつらいよ」(69年)の渥美清と倍賞千恵子、「おとうと」(2010年)の笑福亭鶴瓶と吉永小百合…。これら社会不適合者の男を演じたのは、すべて喜劇役者だった。ところが今回の映画は、志村では成り立っていただろうが、ジュリーが演じているために、妙にリアルで、喜劇になっていないように感じる。

 

   劇中ゴウが歌うシーンがあるが、曲は志村がアレンジした有名な「東村山音頭」。ジュリーの持ち歌も考えられたが、「それだと違和感がある。観客に志村さんのことを思い出してもらうために、あの曲を使った」と山田監督は語る。しかしそれは楽屋オチ。このシーンをクライマックスにし、ジュリーをあえて主役にするなら、活動屋から転職した落ちぶれたミュージシャン(あるいは演歌歌手)などに、脚本を設定し直せば面白くなったかもしれない。

 

   若き日のゴウと淑子を演じる菅田将暉と永野芽郁がイキイキとして魅力的であるために、よけいその差を感じてしまう。特に永野から宮本へのコネクトが、頭の中でなかなかスムーズにいかない。淑子は大船撮影所近くの「松尾食堂」の長女・若菜さんがモデル。木下蕙介監督ごひいきの店で、映画でも独自のカツ丼が紹介されていた。

 

   見ものは、二人の間を取り持つキューピッド役を、昭和の銀幕スター桂園子(北川景子)が受け持つという設定。言うまでもなくモデルは原節子。私の新刊本「輝け!キネマ」(ちくま文庫)でも、詳しく解説した「東京物語」(53年)の名ラストシーンが再現されている。

 

   結論をいえば、この作品は黒澤明監督の遺作「まあだだよ」(93年)と酷似している。つまり黒澤は自分のルーツを確認し、どうやって死を迎えたいかの願望を描いた。同じように山田も大船撮影所という自分のルーツにオマージュを捧げ、どうやって死を迎えたいかの夢を描いている。その意味では喜劇や娯楽映画を観客に提供するというより、もはや過去の素敵な思い出をつづって未来への夢をつぶやく個人映画――つまり山田洋次版「まあだだよ」と考えれば納得できるのではないだろうか。