光秀と信長の間に同性愛が存在したと解釈すれば、帰蝶との三角関係の構図が見えてくる。

 

サスペンス映画の傑作「太陽がいっぱい」(1960年)のなかに、同性愛が潜んでいることを最初に見抜いたのは、映画評論家の淀川長治先生だった。貧しい青年リプリー(アラン・ドロン)が、金を得たいために大金持ちのフィリップ(モーリス・ロネ)を刺殺し、その恋人マルジュ(マリー・ラフォレ)までも盗む。そんな単純な話ではない。

 

リプリーとフィリップの間には同性愛の関係が存在し、フィリップがあまりにマルジュに現(うつつ)を抜かしたためにリプリーは嫉妬し、フィリップを抹殺したと解釈するのだ。私は実際に作ったルネ・クレマン監督に、パリの豪邸でインタビューした時、「日本にはそんな解釈があるが、それは意識したか?」と単刀直入に聞いてみた。すると監督は否定しなかった。

 

三角関係における殺人を描いた映画はいくつもある。しかしこうした秘められた愛情と危うくもいびつな関係を潜ませた時、ドラマは俄然ミステリアスになる。具体的に言えば、まず仲のいい男女3人の関係が存在する。ところがこのバランスが、何かのきっかけで破綻した時、1人もしくは2人の人間が共謀して、もう1人の人間を殺すというドラマツルギーである。

 

「悪魔のような女」(55年)では、妻と愛人が暴力的な校長を殺そうとする。「アマデウス」(84年)では、神を畏敬する作曲家サリエリが、神はモーツァルトばかりに愛情を注いでいると嫉妬し、神を捨てて、モーツァルトを亡き者にしようと試みる。夏目漱石原作の「こころ」(55年)には、親友Kに同性愛的感情を抱く先生が登場する。そのKが愛した奥さんを強引に奪った彼が、自己嫌悪に陥って自ら命を絶つというバリエーションだった。

 

なぜこんなことを書くかと言えば、先日NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の総集編を見たからだ。このドラマは、今解説した「危険でいびつな三角関係」のドラマツルギ―に当てはまる。つまり主人公の明智光秀(長谷川博己)と従兄妹の帰蝶(川口春奈)とは、ほのかな恋愛関係にあった。しかし光秀は織田信長(染谷将太)を一目で見初めたために、彼のもとに嫁ぐことを薦め、自らも信長の家臣となる。その間には主従関係だけでなく、同性愛的な愛情も存在したのだ。ところが信長が権力を志向するモンスターに成り果てたために、帰蝶は光秀をそそのかし、共謀して信長を殺したと解釈するのである。

 

シナリオを書いた池端俊策には当初、そんなモチーフはなかったかもしれない。1年間にわたる本篇では中だるみし、中途では他のライターが書いている。しかしインタビューで「40回くらいから明確なイメージができて、ラストまで一気に書いた」と答えている。代役だった川口春奈が好評で、本篇では市川海老蔵が担当したナレーター(彼の存在は登場人物の主観でもなく曖昧で、NHKのアナウンサーでもできただろう)を、総集編では川口にさせている。それはこうした「危険でいびつな三角関係」を、より明確にさせたかったからではないだろうか。

                                   (2021年3月5日の佐賀新聞に掲載)