飛行機の中で、入国申請書を書く時、「レリジョン(宗教)」と問われた欄に、<仏教、キリスト教>と併記した若い女学生がいた。ところがこれは、外国人から見たら、人格を疑われる、とんでもない話なのである。

 

 彼女にしてみれば、葬式の時は仏教で、結婚式の時はキリスト教で…ぐらいの軽い気持ちで書いたのだろう。しかし唯一絶対柛を信じなければキリスト教ではない。二股をかけていると思われてしまうからだ。ならば<無宗教>と書くべきだが、彼女にとっては、それまで宗教を重く考える習慣などなかったに違いない。

 

 しかしこれは、日本人にとっては一般的な事例なのだ。我々日本人は、お正月に神社に行って柏手を打ち、その足でお寺に行ってお墓参りをし、「南無阿弥陀仏」を平気で唱えている。しかし外国―特に宗教色の強い国に行けば、宗派のどのグループに属するかは、重大な問題なのである。それを考えさせてくれるのが、映画「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」だ。

 

 これはイタリアで実際に起きた少年の誘拐事件を描いている。1858年、ボローニャのユダヤ人居住区に、教皇直属の兵士たちが突然押し入ってきた。裕福なモルターラ邸から、7歳の息子エドガルド(エネア・サラ)が連れ出されたのだ。「教皇の命により、受洗者はカトリックの教育を受けねばならない」というのが彼らの言い分だった。

 

 父(ファウスト・ルッソ・アレジ)も母(バルバラ・ロンキ)も何が何だか分からない。しかしどうやら、家で雇っていたベビーシッターが、生後間もない赤子に、洗礼を秘密裏に授けていたらしい。父はその件を尋ねるが、彼女は頑として口を割らない。

 

 一方、ローマに連れて来られたエドガルドは、教皇ピウス9世(パオロ・ピエロボン)から歓待を受ける。教皇は〝リソルジメント〟と呼ばれる19世紀のイタリア統一運動が高まる中、イタリアの約4分の3の領土を失おうとしていた。そこで彼は、教皇国家の権威を示そうと、エドガルドを広告塔に利用しようと思っていたのだ。

 

 エドガルド誘拐のニュースは、ユダヤ人のコミュニティを通じて、世界中に広まった。非人道的だと糾弾する自由主義系のメディア、ナポレオン3世を始めとし、遺憾の意を表明する近隣諸国の反応、教皇の存在をあざ笑うような演劇を上演するアメリカの皮肉…。

 

 当初、この原作権は、逆境に陥った子供を好んで描くスティーヴン・スピルバーグ監督が抑えていた。しかし結局映画化を実現したのは、本国の巨匠マルコ・ベロッキオ監督だった。彼はこれまでに、国家、教会、マフィアなどが関連するイタリアの歪みや暗黒史を繰り返し描いてきた。彼は、「この事件のもう一つの謎は、エドガルドの改宗とその後の人生です」と強調する。

 

 その言葉通り、映画は青年期になったエドガルド(レオナルド・マルテーゼ)と、その家族も描いている。宗教は人間を幸せにするために存在するのかと思っていた。しかしその驚くべき結末を見ると、宗教の残酷さや洗脳のメカニズムが、重く深くのしかかって来る。