軽蔑とは対象を下らないと思い、無価値認定し、存在を否定し、自己認識上で抹殺することを意味する。
辞書的な意味では「卑しいもの、劣ったものなどとみなして、馬鹿にすること」とある。
卑しさは品格、劣等は能力を意味するが、高貴で有能な対象も下らなさがあるなら軽蔑の対象になる。
軽蔑の持つ冷たい眼差しは相手を馬鹿にする価値もないと見なすことであり、存在を無視する。
相手にするだけ無駄である。
軽蔑とは相手を無価値化、透明化、幽霊化させるということだ。
その利点の一つは不快で嫌いな相手に対し負の念や生き霊を飛ばさずに済むこと。
また、軽蔑の意識状態は無の瞑想に近く、頭頂部のチャクラが活性化すること。
ただし軽蔑は心の底から、あるいは底抜けに徹底しなければ頭頂部のチャクラは働かない。
そして軽蔑の対象が自分や世界になったとき、それは真価を発揮する。
自分や世界への徹底的な軽蔑は瞑想状態と何ら変わらない。
絶望とも諦観とも異なる異質で冷酷な精神状態となる。
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AI による概要
仏教における軽蔑の扱い
慈悲の欠如:
仏教では、慈悲(他者を思いやる心)を重んじます。軽蔑は、慈悲の反対であり、他者への共感や理解を欠いた行為とみなされます。
差別意識:
仏教は、すべての存在は平等であると説きます。軽蔑は、差別意識から生まれるものであり、仏教の教えに反すると 浄土宗全書テキストデータベース は述べています。
浄土宗は、念仏を唱えることで、身分や境遇に関わらず、すべての人が救われるという教えを広め、多くの人々に信仰されています。
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念仏で人が救われるのはその場限りだが、瞬間的にでも日常の苦痛が紛れるならそれはそれで役に立つ。
ただ大悟解脱とは何の関係もない。
大乗仏教はキリスト教に近く、聖者の振る舞いを真似し、トラウマを解消させるのに寄与する。
しかし偽善や偽薬であることに変わりはない。
真実や本心を純粋なまま保ち、歪めない、汚さないことを最上位に位置付けるなら偽善、偽薬は糞である。
犯罪の被害に遭い、どうしても犯人を許せず、呪ってしまいたいとき、大乗仏教は役に立たない。
許せと言われて許せるほど人の心は簡単ではない。
嫌悪や呪いは感情から発し、軽蔑は知性から発せられる。
大乗仏教は感情の処理には有効だが知性に欠ける。
一切皆苦のこの世に価値を認めたら輪廻のループから抜け出せるわけがなかろう。
無価値と断定するから足を洗い、立ち去ることができる。
軽蔑とはその第一歩だ。
大乗仏教、またはキリスト教が真似する聖者の振る舞いは、彼らが大悟解脱したのちの感謝と祝福の爆発を経た至福だ。
悟ってもいないのに猿真似して何になる?
真面目に宗教と向き合うなら大悟者の修行時代を完璧にトレースすることから始めなければならない。
そして彼らはみなこの世をボロクソにこき下ろしている。
大悟前に世界を、人間を賛美した聖者がいたためしはない。
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もちろん誰彼構わず軽蔑するわけでも、肥大した自我が傲慢さから他を見下すわけでもない。
軽蔑を正しく機能させるためにはまず●の技法による自我人格の清浄さが求められ、それがなされなければ単なる冷笑主義に堕する。
プライドばかり高く、自己肯定感の低さから優越感を得て気持ち良くなろうと他人を馬鹿にするなど、それこそ下らなさの最たるものだろう。
プライドなんて初手から放棄し、自己を肯定した上で自己存在を軽蔑し、無意味と断じ、無の意識状態をキープする。
軽蔑と一言で言っても説明しきれない背景が恐らくあるだろう。
それを簡単に説明すればプレイヤーとしての自分は肯定するが、地球での生存競争というクソゲー内のキャラクターとしての自分は下らないと軽蔑、無価値視するということ。
地球での人生が代替可能なゲームソフトであり、しかもクソゲーであるとの認識。
これを常識的な世界観を持つ大抵の人間は持っていない。
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××禅は頭頂チャクラを刺激するが、もしかしたら軽蔑という精神状態自体に知性を上げる効果があるのかもしれない。
頭の良い人間が愚か者を軽蔑すると一般的に理解されるが、軽蔑する者が頭が良くなるのかもしれない。
何かを下らないと判断する時点である程度の審美眼や論理的整合性を関知する知能があるはずで、軽蔑は美意識と近しい関係にある。
意識高い系が他を軽蔑しがちなのも、彼らが比較的高知能なのも一直線で繋がる。
軽蔑は宗教やスピリチュアルで否定的に捉えられるが、そこには知性を覚醒させる恐るべき力が秘められているように思う。
少なくとも●の作者はそこに気付き、重点的に攻めた。
その結果の大悟なら邪道こそ正道と言える。