ノーマルとフェミニストとビッチには分岐点がある。
①ジュノーやセレスが剋されているか否か。
②躾けられず、他責思考か否か。
③教育を受けず、教養がないか否か。→ビッチ。
ジュノーやセレスが剋されていると結婚観や結婚運が壊れ、中庸を失い極端化(フェミニストかビッチ)する可能性が出る。
しかし、まともな親にしっかり躾けられたら他責思考に陥らず、凶星を教師として捉え、自己研鑽に励む(ノーマル)。
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躾が不十分な場合、他責思考に陥り、加害者になる。
極論を言えばフェミニストは男社会に対する侵略者であり、ビッチは他人の家庭に対する侵略者で、共に他責の加害者だ。
ただフェミニストに関しては時代や状況で正当な自己防衛と言える場合もある。
ジュノーやセレスの剋で女性はフェミニストになるが、それの男性版も当然あるわけで、その標的は奴隷主義とでも呼ぼうか。
この奴隷主義は男女間なら男尊女卑だが、男性同士でも起こり得て、後輩をパシリにしたり部下にパワハラしたり下請けを虐げたりとバリエーションは豊富だ。
「弱者を奴隷にしても咎められない」という奴隷の合法化は強者の論理であり、この人権軽視の歪んだ思想は当事者の人権意識が低いと自覚されず、見えない弊害として放置される。
フェミニストとは(女性分野に限って)その問題に切り込む戦士であり、奴隷主義の男性からは侵略者に映っても正義は彼女らにある。
一方で男性や強者の奴隷主義とは関係ない分野で牙を剥くフェミニストもおり、その非現実的な活動は悪しきフェミニストとして批判される。
悪しきフェミニストが奴隷主義のベクトルを男女逆にしただけの男性差別に陥るなら、問題の解決にならない。
ブラック・ライブズ・マター(Black Lives Matter、BLM)運動もその帰結は黒人のアジア人差別に終わった。
奴隷主義の是正が単なる差別の攻守交代に終わる愚かさはどこも同じだ。
本当の問題解決は男女関係なく、奴隷主義からの脱却以外ないのだが。
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現状、パワハラ防止法や下請法があるにはあるが、平気で破る人や企業も多く、まだまだこの分野での人権意識は低いままだろう。
弱者を人間扱いするという感覚を強者に理解させるのは難しい。
弱者の奴隷化はテロを生むのが歴史の答えのはずで、それを強者も知ってるだろうに危機感がないのは、日本の男性が奴隷気質だからという見方もある。
AI による概要
マスキュリズムとは、男性に対する性差別を無くすための思想や運動のこと、あるいは男性の権利を主張する運動を指します。以前は、男尊女卑を意味する言葉として使われていましたが、現在は、男性への性差別を解消する運動や、男性の権利を主張する立場を指す言葉として使われています。
日本に足りないのはフェミニズムでなく、このマスキュリズムかもしれない。
ただフェミニズムに対するカウンターでなく、強者男性による弱者男性への奴隷化の是正として。
これは男の面子として恥ずかしいからフェミニストのように旗を掲げにくいのが難点か。
アメリカのトランプ旋風も根底にはプアホワイト=弱者男性の反乱という側面が隠されてるが、「弱い俺たちを助けてくれ」なんて誰も言ってないのがプライドに拘泥する男の情けなさか。
むしろ彼らは銃を振りかざし強者に偽装していて、その薄っぺらさが尚更情けない。
彼らは移民ばかり敵視するが、移民に負ける自身の無能さへの自責の念がない。
この他責思考はフェミニストのそれであり、マスキュリストはその男版で合ってるだろう。
つまり、ジュノーの剋が男性に現れたら、その分岐はマスキュリストかヤリチンか、だ。
マスキュリストは少なくとも日本では認知されてないが、各国で極右政党が台頭するのを見るに、今後世界的な潮流にならないとも言えない。
Wikipediaより。
マスキュリズム(英: masculism)とは、フェミニズムの主体を男性に置き換えた概念として、ワレン・ファレルが提唱した概念である。
提唱者やその支持者は男性に対する性差別(男性差別)の撤廃を目指す思想や運動と定義している。ただ、場合によっては反フェミニズム的な主張であることを指すケースがある。
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繰り返しになるが、私のいうマスキュリズムは反フェミニズムではない。
既存のそれは男性による男性への差別迫害を遡上に乗せておらず、むしろそれは奴隷主義の強者側からの情報発信だろう。
例えば松本人志の性加害でいうなら被害女性の主張がフェミニズムであり、松本擁護の主張がワレン・ファレル式マスキュリズムだ。
一方、私のいうマスキュリズムは太田光が過去松本人志にシメられ、殴られたとか土下座させられたという被害を#MeToo的に訴えることであり、(そんなダサいことを太田さんはやらないだろうが)誰かがやらねば是正されないということを私は言っている。
プラスマイナスの岩橋さんの訴えなどはその典型だが、あれも岩橋さんの頭がおかしいということで沈静化した。
岩橋さんにはフェミニストのような擁護者は現れなかった。
この孤立無援が強者男性から被害を受けた弱者男性の現状だろう。
追い詰められた男性は自殺かテロに走る。
岩橋さんの告発もある種の捨て身のテロだった。
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母性礼賛の私は母性否定のフェミニストに反対だが、ワレン・ファレル式強男マスキュリズムにも反対だ。
悪しきフェミニストが推進する育児法はサイレントベビーを量産し、愛着障害を蔓延させ、親による子供の奴隷化を普及させていると私は思う(今はだいぶ改善された)。
同様に強男マスキュリズムもサイレントな文句を言わない労働者を量産し、労働適応障害を蔓延させ、経営者による弱者男性の奴隷化を普及させていると思う。
しかし世間で見聞きするのは悪しきフェミニズムか、その反動としての強男マスキュリズムばかりだ。
真っ当なフェミニズムや弱男マスキュリズムが日の目を見るのはいつになるのか?
あるいはノーマルな自責思考は良妻賢母的なフェミニズムや弱者男性への救済には向かわず、彼らは人知れず苦しみ、自助努力で問題を乗り越え、社会問題化を避けるのだろうか?
そうでなければ泣き寝入りし、自殺に向かうのだろうか?
アブノーマルなフェミニズムの対がビッチなら、ノーマルなフェミニズムや弱男マスキュリズムの対が自責に駆られた自殺や引きこもりなら、それは別の見えざる社会問題だろう。
人を頼らず自分で解決する。
それができなければ自殺する。
それを社会が強要し、自己責任を押し付け、逆らう者には「死ね」と言う。
その自責の牢獄に囚われているなら、開き直って他責のフェミニストやマスキュリストになった方がマシなのかもしれない。
それを想像すると、やはり過度の自責は毒であり、そこに手を差しのべる弱者のためのフェミニズムやマスキュリズムは必要に思える。
太陽やジュノーの剋はいじめの標的になりやすい。
自責思考のいじめ被害者を救うには、いじめる側の他責なマスキュリズムでは救われない。
仏教の慈悲、キリスト教の慈愛のような優しさのないフェミニズムもマスキュリズムも自殺に向かういじめ被害者の心の支えにはならないだろう。
やはり母性なきフェミニズム、父性なきマスキュリズムに価値はない。