難解さで煙に巻くスピリチュアル | 運命ハック

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オリジナル占術を幾つか編み出しましたので、それを用いて不定期に占っていきます。

占星術でもスピリチュアルでも私が思うのは既存のものは詳細な地図を書きすぎているということ。

その癖要点を得ず、無駄に難しいだけで熟達しないと使えないという扱いにくさがある。

目的地に着くのにそこまで細かく説明する必要はなく、地図はもっと簡潔で良い。
それは特に哲学書や宗教書に顕著で、以下のダンテス・ダイジのものも小難しい。

http://haitaka.blog19.fc2.com/blog-entry-126.html


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 個的神霊を観想するというのは、釈尊でもキリストでもクリシュナでも日蓮でも達磨でも、その他、特にその人にとって強く心底から感じられる守護神霊を念想し、観想するのである。極端に言えば、尊敬する現存の人物でも恋人でもよいとも言える。
 例えば、釈尊を、観想念想することにより、始めは、空想程度にすぎないものが、やがては、はっきりと目前に実在するかのように感じられるまでになる。さらには、自分が釈尊そのものであるという状態にまで到る。
 この時、冥想者は冥想が深まれば深まる程、その全日常生活と全人格の中に釈尊的徳性と光明とを全般的に具現化していくこととなる。
 あなたは、キリストでも釈尊でもを、観じていきつつある時、ついに、キリストのあるいは釈尊の臨在を直下に感じるまでになるであろう。その時、あなたは随喜の涙を止めることあたわずという心境になる。あなたの高次元意識が開かれたのである。
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しかし人の思念が持つ霊的な力の説明としてはこれ以上力強いものはないだろう。
ただ、上記リンクに書かれたことは自前の思念力を引き出し開運するというものであって、外的な思念集合体である多神教の神仏の加護を得るというものではない。

それは電動自転車に乗りながら電源が入っておらず、それに気づかず重い電動自転車を漕ぐことで自前の脚力が鍛えられ、結果実力が高まり好成績を残すようなものだ。


(密教の真言は恐らくこっちではないかと踏んでいる。

真言が接続するのは外的な思念集合体(神仏)なのか、自身の内的な神性(霊能力)の具現化なのか。


後者なら神仏の加護でなく、自身の霊的防衛力や引き寄せ力を強化したにすぎない。

効果、ご利益があるならどっちでも良いのかもしれないが、神仏が実在すると考えるガチ信者ならそこと繋がってないとすれば大問題だろう。)


私が知りたいのは電動自転車の電動の入れ方であり、神仏への本物のアクセス方法だ。
それは観想法のイメージによるセルフ神仏の顕現でなく、リアル神仏の招魂だ。

しかしそれは降霊術のような魔術呪術に片足を突っ込むようなものであり、現状霊感のない私には良く分からない。
少なくとも瞑想主体の宗教活動では手が届かないことは分かる。

リアル神仏との接触は大悟解脱を目指すダンテス・ダイジや●の筆者の仏教的手法では関わりようのない横道なのだろう。
あるいは秘技すぎて秘匿されたのか。

神道仏教で言えば現在神仏との接触は神職僧侶に独占されているが、恐らく本来は誰でも招魂できるはず。

専売特許として秘匿された精神技術は案外簡単なものだと予想するが、なぜオープンソースになってないのか不満ではある。



神の多層構造を改めて示すと、


①原初の宇宙意識

②地球管理者(a,星の運命システム、b,ルーシュの搾取システム)

③外宇宙由来のUAP(一神教の神、古代宇宙飛行士説)

④地球産の思念集合体(多神教の神仏)

⑤人の魂が持つ神性(思念力、霊能力)


②aは世の占星術師。

④は一般的な宗教者。

⑤は霊能者。

③はコンタクティ。

②bはロバート・モンロー、ヘミシンク。

①は大悟者。


これらは一般人からはスピリチュアルや宗教としてひとくくりにされるが、中身は全然違う。

これは過度の単純化による複雑性の毀損という弊害。


④⑤はクロスオーバーしてるし、①に到達するには⑤の土台がいる。

③も同様。


恐らく個人の神性から発する思念力、霊能力はすべての基盤になっている。

それゆえ他の階層とシームレスで繋がり、混同されやすい。


真言は⑤のセルフ神仏なのに④のリアル神仏の加護を得たと誤解してると、④のサンスクリット語のマントラや古代日本語の祝詞に効果の程度で負けるかもしれない。



真言についてはこんな話も。

https://note.com/forestpub/n/na1f84b7f75b7


>真言の〝本当の意味〟は言葉にできないし、かえって意味を知らないほうがいいそうです。


これについては思い当たることがある。

それは●の技法だが、私はアファンタジアなので瞑目時にイメージ描写がしにくく、代わりに言葉を詳細にすることで効果を出した。


真言の意味を知らない方が良いとはイメージ描写にはその方が都合が良いということ。

逆に言えば真言は人のイメージ力を使っているということ。


やはり真言は内的な神性の強化術であって、外的な思念集合体(神仏)の招聘術ではないように思う。


犬ぞりで実際にシベリアンハスキーを使役するのと、自己暗示で自分を犬だと思い込み、自力でそりを引くのとでは大違いだ。

そりを引けるならどっちでも良いとはならんだろう。


霊能者と言われる真言使いも果たしてその区別をしてたのかどうか。

天狗を呼ぶ真言を使ったら死んだ修験者の霊が寄ってきたという話もあるが、それって内的な神性(思念力)である引き寄せが強まった結果ではないのか?