生命の生体反応には三つの態様がある。
①生命発生。
②死の恐怖。
③恐怖の除去による生悦(生きれる安堵、生きる喜び、生かされる愛しみの混合された生きることへの爆発的肯定感)。
死の恐怖なき生命は危険に鈍く、すぐ死ぬ。
恐怖・苦痛・不快はそれを知覚できるから回避行動が取れ、生存率が高まる。
生存確保によるご褒美の生悦がなければ恐怖や苦痛ばかりで生き甲斐がなく、生命は死にたがる。
生悦があるから生命は頑張って死の恐怖を回避し、長生きできる。
(生悦の最たるものは他殺の恐怖の除去によるものでなく自殺のそれである。
生悦は自殺防止の仕組みであり、他殺を予防するものではない。
むしろ自分が殺されそうなとき、相手を返り討ちにし、ほふることによって生悦を得る場合も考えられる。
この世界は他殺を容認しているとも言える。
なぜならそれによって自身の生存が確保されることもあるからだ。
生命に与えられた指令の第一は自己の生存であり、それ以外の命は二の次となる。
無論、殺生を禁忌とする理想を掲げ、かつ生存欲に理想欲が勝つ場合は別だが。)
仏教では一切皆苦として苦痛に対し諦めの境地に誘導されるが、心理苦(理想欲の裏返し)のない人間は構造上あり得ないし、身体苦(生存欲の裏返し)のない生物も同様なわけで、
無恐怖・無苦痛・無不快なんて無敵の生物は相当下等でなければ物質世界には存在しないと思われる。
生命として生きる上で恐怖や苦痛が大前提であるなら、それを踏まえて生命のやるべきことはそれらの除去であり、そのご褒美としての生悦の享受である。
生悦の手近なところでは笑いの緊張と緩和がそうだし、挑戦と感動も苦と除去の結果だ。
より簡単に言えば重圧と解放であり、圧迫と反発であり、陰と陽だ。
正しくは生命発生が太極=陽であり死の恐怖が陰、恐怖の除去の結果の生悦が冥だが、恐怖と生悦でも陰陽が成り立つ。
世の人間、特に先進国ではあらかたの不快を排除し、生活の質を上げる一方の段階に入っているが、生悦は負荷が大きければ大きいほどそれが取り除かれたときの解放感は大きいわけで、
恐怖・苦痛・不快から遠ざかるのでなく、あえて火中の栗を拾うくらいの気概がないと大きなリターンは見込めない。
禍福はあざなえる繩の如しというが、幸福は災禍あってこそという逆説を理解しないと生悦なき単調退屈な人生となる。
それはそれで中庸が保たれた一つの幸福の形ではあるが、死の淵で人生を振り返ったとき何か物足りなさを感じるなら、それは安牌を選び続けた報いと言える。
(ちなみに生命反応の三態は数理の3であり、喜怒哀楽愛憎の感情は6だ。
その間には4と5の数理があり、四象(空間・方向性)と五行(時間・周期性)という自然環境や生活環境を司る。
ここから推察するに、もしかしたら3の生命活動は空間や時間に先行して宇宙に発生したのかもしれない。
が、それを確かめる術はないので単なる空想だ。)
人は安易に恐怖・苦痛・不快を隠蔽し、嗜好品や薬物で感覚を麻痺させ誤魔化し、虚飾に満ちた日々を送る。
しかしいざ心身の健康を害し、隠蔽した問題が表面化したとき、肥大化したそれにたじろぎ、憤悶する。
そこであえて恐怖・苦痛・不快の核心に首を突っ込み、患部を摘出したとき、初めて真に生きた心地がするのだろう。
逆に言えば何の問題もないかのように思えてどこかしら不平不満が募り、生きた心地がしない、生悦を感じないとき、
恐怖・苦痛・不快を隠蔽する無自覚な情報統制が毒親由来の毒人格によって為されている可能性がある。
真に恐ろしいのは(生悦を得るための)恐怖の除去を阻害する恐怖体験の隠蔽、恐怖感情の麻痺、恐怖記憶の忘却であり、
その恐怖に加害者がいるなら犯人が加害の次に行うのは犯罪の隠蔽工作だということを忘れるべきではない。
この事は毒親の幼児虐待でも戦勝国の戦争犯罪でも地球のオーナーによる地球人類の拷問的監禁でも同じだ。
絶対の正義、神のように見せかけた存在が本当にその通りなら問題ない。
しかし何か問題があってなお支配者が善人ぶるならそれは虚構だと見破る眼力が欲しいものだ。
でなければ加害者の隠蔽工作など永久に覆せず、恐怖の除去は夢幻と消える。